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日本民間航空の歴史 オースター小型機の歴史 最終編集17/01/14

 

History of the Auster Aiglet and Autcar in Japan

    

 

      

JA登録のエイグレットとオートカー

 

登録記号

形式

初度所有者

JA登録〜抹消日

1

JA3012

Auster J/5F Aiglet

おおとり会

1952/10/31〜?

2

JA3020

Auster J/5F Aiglet

おおとり会山陽支部

1952/10/17〜1953/04/03

3

JA3021

Auster J/5F Aiglet

おおとり会新潟支部

1952/10/16〜1953/01/29

4

JA3022

Auster J/5G Autocar

おおとり会大阪支部

1953/10/31〜1959/03/26

5

JA3023

Auster J/5G Autocar

極東航空 (全日空)

1952/11/19〜1960/12/01

6

JA3027

Auster J/5G Autocar

極東航空

1952/12/11〜1957/08/29

7

JA3028

Auster J/5G Autocar

極東航空

1952/12/11〜1954/03/10

8

JA3029

Auster J/5G Autocar

極東航空 (全日空)

1952/12/11〜1961/11/14

9

JA3032

Auster J/5F Aiglet

おおとり会関西支部

1952/12/26〜1961/06/03

八尾上空を飛翔する極東航空のオートカー 提供中井潤一

 

元記事
ヒコーキの会機関紙ヒコーキ雲57(発行1968/11) 日本のオースター系  その1 
ヒコーキの会機関紙ヒコーキ雲59(発行1969/04) 日本のオースター系  その2 
 
日本のオースターリサーチグループ:井上博義 上田新太郎 門上俊夫 山田郁央  協力:金日空 平井正二  まとめ:中井潤一
上記記事を、佐伯邦昭 が時点等修正の上再編集しました。

 

まえがき

 上の写真の場所は恐らく阪神飛行場付近であり、遠くに通天閣が見えます。(間違っていたらご免なさい。) オースター1号機のJA3012が、大阪公設市場の宣伝に高度250メートルからビラ撒きとマイク放送中に、プロペラが飛び、子どもがいる道路を避けて田んぼへ不時着、プロペラは民家の屋根を突き抜けていたというのが、この東住吉区辺りのような気がします。その時、同乗の中村正夫さん少しもあわてず「この付近に不時着します!ご注意ください!」とマイクで叫んだといいますから、現在のびっしりと市街化した状況からは、想像もできないのんびりした時代でした。 

 子ども の頃に飛行機から撒かれる宣伝ビラを追っかけた思い出の人もいるでしょうが、その機体がオースターのエイグレットかオートカーであったことを覚えていますか。軽飛行機と言えば「セスナ」、ヘリコプターといえば「ベル」の語源が始まった頃の話しですから、いまやオースターなんぞという名前は死語に近いかもしれません。

 実は、1年間に9機も輸入された名機でした。 (上表)

 1951年フアンボローショーにおいて、 第2次大戦のエース、ラナルド ポーチエスがエイグレットで片脚着陸、宙返り頂点での逆横転等々派手な曲技飛行をやってみせ、当時の航空界の話題として日本に伝えられました。

 それに刺激されたのか、右のサイノ・ブリティッシュ・エソジニヤリング・コーポレイションの売込みが上手かったのか、航空庁の後押しを受けたおおとり会がまず白羽の矢を立てたのです。

 到着間もない19521110日には、立太子礼慶祝として、青木航空のセスナ4機と共におおとり会のオースター4機( エイグレット3機、オートカー1機)が東京上空を飛びました。 これが、戦後初の民間機による編隊飛行で、その日の午後には、ラナルド ポーチエスが玉川飛行場で、片翼ハンカチ拾いなどの妙技を見せて、観衆をうならせています。

 また、第1回航空白の1953920日、羽田の中央大会では、民間機の第1編隊1番機として青年飛行連盟のTT-10 2機とKAL-1を従えてエイグレットが飛びました。

 このような華やかな門出のオースターでしたが、9機の購入でパタっと停まってしまいましたし、長く活躍したのかというと、クラッシュが(自殺や軽いのを含めると)8機、事故率9割、死亡13名、重傷6名という 、いやはやとんでもない欠陥機の印象を残し てしまいました。エイグレットもオートカーも英国はじめ諸外国ではたくさん使われているので、何故日本でこうなのかというと、航空再開初期にイギリス機に飛びついたのはいいが、まともな技術者も整備基準もないまま、軍隊帰りのパイロットが威勢よく飛んだのが最も大きな原因だろうと思っています。それを裏付けるのが、おおとり会と初期の極東航空です。 


・ おおとり会

 おおとり会は、戦中の逓信省航空機乗員用養成所の生き残りが同窓会として発足(1951年)しながら、これを活用して再開航空の基礎作りをしようという思惑の松尾静麿航空庁長官、大庭哲夫同次長の後押しで、操縦訓練や事業航空に乗り出したのがつまづきの基でした。
 事務所は航空庁舎内に置く、社団法人免許はすぐおりる、オースター4機の輸入はすぐ認められる、事業免許もないの飛ばし始める等々、いささか天狗になって歩み出したために、ろくな整備も受けない飛行機が次々に事故を起したのも当然の帰結だったと思われます。
 おおとり会は、あわてて組織の立て直しをはかり会長に尾崎行輝氏を迎えるなどしましたが、無理に購入したオースターの借金が返せないうちに次々に墜落するし、会員からは不満が噴出するわでたち行かなくなり、1956年に飛行連盟に合併して終りを告げました。

・ 初期の極東航空
 
 極東航空も手始めにオートカー4機を購入しています。その辺りの事情はよくわかりませんが、おおとり会所有のエイグレットの写真に極東航空の塗装をしたものが見られますので、購入や輸入の申請を航空庁に顔の利くおおとり会と共同歩調をとったとも考えられます。
 航空情報1953年5月号の同社専務井上長一氏へのインタビューでは「稼働機数の7割が工場会社からの空中撮影、進水式の撮影やメッセージの投下に使われ、新聞社へのチャーター(2万円/時)もだいぶしている」とのことですが、まずヘリコプターで事業を展開した日ペリと違って、小回りの利かない固定翼だけに頼っていては収益も思うように上がらなかったのではないでしょうか。
 バックに関西汽船、大阪商船、近畿日本鉄道があるので、強気に定期路線に進出しようとダブとマラソンを取得しますが、思うような効果がでず、結局一度も黒字になることなく日ペリと合併するに至ります。
 オートカーも合併までに2機失っており、経営の足を引っ張った機体でありました。


エイグレットとオートカーの諸元

 

Auster J/5F Aiglet Trainer 

Auster J/5G Autocar

全     幅

9.76m

11.0m

全     長

7.07m

7.01m

全     高

2.53m

2.03m

エンジン

 Gipsy Major 1   142hp

Cirrus Major 3   146hp

乗    員

自    重

601kg (全備1000kg)

621kg (全備1112kg)

最大速度

203km/h(巡航176km/h)

203km/h(巡航176km/h)

失速速度

46.4km/h

57.6km/h

上昇限度

4500m

4270m

離陸滑走距離

157m

160m

航続距離

440km

775km

 

1 オースターJ/5F AIGLET エイグレット

 エイグレットは、J1オートクラットの発達型で、曲技のできる練習機として作られました。エはジプシー  メジャーT型130馬力で す。このエソジはイギリスでは自動車にも使われている優れものですが、日本へ来た機体に装備されていたものは部再生品で1000時間以上も使われたボンコツだったようです
 胴体は鋼管溶接羽布張り、主翼 は木金混製羽布張りといぅ 全備1トたらずの機体で、スティック の複操縦装置がついています。3座のレジャー型と4座のトレーナーとがあり、日本には前者が輸入されたと言われますが、航空局監修の日本航空機全集1958年版では、乗員1、乗客3となっており、実際4人乗りで運用していたようです。


2 オースターJ/5G AUTOCAR オートカー

 オートカーは3座のオートクラットから発達し、胴体を再設計してエンジンをパワーアップした4座の機体で、約100磯が生産きれました。
 機体構造はエイグレットと同じで、一回り大きいことを別にすれは、ほとんど同じで 、見別けもつけにくいです。
 オートカーには3つの型があり、日本に来たJ5Gは146馬カのシーラス・メジャー3型を付け、シーラスオートカーとも呼ばれています。排気管にはサイレンサーを付け、乗客.貨物.患者輸送、グライダー牽引、農業用と多用途機として設計されました。 輸入はエイグレットと同じくサイノ  ブリチッシュ エンジニアリング コーポレイションを通じて行われ、おおとり会が1機、 極東航空が機購入しました 。極東航空のオートカーがデビューしたのは195210月21日で、一番機が羽田で組立てられ八尾飛行場へ到着しました。エイグレットと時を同じくして輸入されたわけですデモフライトで各地をまわり、翌年1953年 には九州の水害に際して、朝日新開と共同通信のチャーターで取材に大活躍をし、紙面を飾る事も幾度かあったようです。

 

3 各機解説 1

@ JA3012 J/5F エイグレット    

1952/06/07

c/n2723

1952/10/31

JA登録 おおとり会 おおとり1号 定置場東京国際空港

1952/11/10

東京玉川飛行場で命名式 立太子礼奉祝編隊飛行に参加

1952/12/27

玉川飛行場で転覆

1955/09/15

中村正夫 定置場阪神飛行場
大阪公設市場連合会が極東航空に宣伝費航空を依頼
毎月7,17,17日にビラ撒き宣伝飛行を実施

1956/01/07

ビラ撒き中にプロペラが飛び、大阪市東住吉区平野堂町の田に墜落

 

以後 消息不明 登録未抹消

おゝとりNo.1時代 航空情報1953年9月号より  玉川読売飛行場 撮影 東京都 斉間 亨


おゝとりNo.1時代 航空情報1955年11月号


おおとり1号時代 日本航空機全集より



 下の写真では、機首下面に排気消音器があり、上の写真ではありません。着脱可能の装置か?

・ 大阪公設市場号として極東航空が運用 機体色は赤紫 機首マークは大阪市章

撮影1955/11/03 阪神飛行場 中井八郎 排気消音器がある



撮影1955/11/04 阪神飛行場 中井八郎 排気消音器をはずしている


日本航空機全集


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A JA3020  J/5F エイグレット    2

1952/06/07

c/n2724

1952/10/17

JA登録 おおとり会山陽支部 貴生号 定置場不明 極東航空が運用か?

1953/03/12

福山市で公明選挙の宣伝ビラ散布後
広島県熊野跡村(現広島市安芸区阿戸町)の小田山中腹に衝突、2名死亡

1953/04/03

抹消登録

撮影日不詳 提供中井潤一


 名義は、おおとり会山陽支部であり、墜落時には広島市の吉島飛行場を基地にして選挙啓発ビラを広島県内に撒いていましたが、この写真では、極東航空の文字とマークが入っているので、早期に同社に移転していたのかもしれません。 事故原因は、天候悪化による視界不良によるものとされています。

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B JA3021 J/5F エイグレット   3

1952/07/17

c/n2737

1952/10/16

JA登録 おおとり会新潟支部 新潟号 定置場不明

1953/01/19

館山から月島に向けて無線標識施設定格検査のため飛行中にプロペラシャフトが折損してプロペラが離脱し、海上に不時着 1名死亡 2名重傷

1953/01/29

抹消登録

 戦後、日本人パイロットの操縦中に発生した初めての死亡事故として大きく取り上げられました。原因は、シャフトのねじり振動によってプロペラボスの締め付けねじが破壊されたためで、整備不良によるものと思われます。

航空情報1953年3月号



C JA3022 J/5G オートカー    4

1952/08/25

c/n2925

1952/10/31

JA3022登録 おおとり会

1952/11/08

羽田のJAMCOで組立、読売玉川飛行場で耐空検査

1952/11/10

明仁親王立太子の礼祝賀飛行で オースター機の編隊長機を勤める

 

極東航空 定置場八尾空港

1955/02/22

岡山県総社市で公明選挙の宣伝ビラ散布中に墜落大破 1名死亡 1名重傷

 

更 東京樹脂工業に移転  (ヒコーキ雲59による)

1959/03/26

抹消登録  (下郷資料による)  更 (日付は1955/03/26の誤記ではないか?  下記参照) 

思い出 輸入組立て、初飛行、祝賀飛行でのトラブルなど

つばさ会機関誌 つばさ 1954年3月号から



事故

航空情報1555年4月号


新 岡山県での墜落大破後の状況について

ヒコーキの会機関紙 ヒコーキ雲No59 中井潤一 日本におけるオースター系その2より

新 2017/01/14 アンダーライン部分について考察 はねぶた 

 検索してみますと「東京樹脂工業株式会社」というそのものズバリな社名が出てきました。製品がゴム用軟化材とありますから専門メーカーとして社名が表すとおりの製品を供給している特化型の企業と見えます。

 沿革を見ますと昭和1955日、松根原油製造並び精製販売を目的として創業。旭産業有限会社を設立し、福島県下郷町に工場を建設。とあります。
 http://tokyo-jushi.co.jp/playback/

  社名に関する項目としては他に
 「昭和28年、東京樹脂有限会社に社名変更。」と、 年代不明の「業務拡大に伴い、有限会社の組織を株式会社に変更。東京樹脂工業株式会社となる。」があるだけなので、昭和28年の社名変更は「東京樹脂工業有限会社」の誤記ではないかと思います。

 後に株式会社に「組織変更」とあるので平成18年以前の改組と考えられますが、その折に「工業」を追加したとは考えにくい(「樹脂」や「工業」を外した、はありがちな気が) というのが理由です。

 で、ヒコーキ雲読者の皆様は松根油とくれば航空機用燃料を連想する方も多いのではないでしょうか。(実際使えたかはともかく)

 墜落破損した機体を引き取ったのは、エンジン、燃料タンク、監視計器、運転装置、取付架台等一式の資材を燃料の試験装置として使うためだろうというのが、私の想像です。破損の程度は不明ですが、個々の部材として考えれば使える部品はそれなりにあったのではないでしょうか。

 

佐伯から : 1955/02/22に死亡を伴う重大事故を起こしてから、抹消登録の1959/03/26まで4年の間隔があるのが大きな疑問です。
 抹消登録の日付が、事故約1箇月後の
1955/03/26の誤記だとすると、東京樹脂工業が研究材料として機体の一部を引き取ったのではないかという、はねぶたさんの推定が成立すると考えられます。

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D JA3023 J/5G オートカー    5

1952/08/21

c/n2877

1952/11/19

JA登録 極東航空 定置場阪神飛行場

 

事故により大破している模様 詳細不明 JA3023は抹消せず 

1957/12/01

合併により全日本空輸

1958/12

極東航空から引き継いだ部品により再生開始

1959/06頃

再生作業完了 JA3023継承  業務飛行中の写真

1960/11/16

北海道上川郡で墜落 全日空の中野勝義専務以下4名死亡

1960/12/01

抹消登録

撮影1955/11/03 阪神飛行場 中井八郎 


撮影1956/03/31 阪神飛行場 提供はねぶた

 極東航空時代の色を、中井さんは赤紫、Twinbeechさんは真っ赤と表現して おり、ひときわ目立つ塗装でした。

撮影1956/04/06  八尾飛行場 Twinbeech
 


再製

JA3023再生の記事 1959年4月発行 全日空新株発行目論見書 提供門上俊夫

 本機は極東航空時代に墜落大破したものの、登録記号を抹消せずに1957年の合併で全日空に引き継がれ、予備のストック部品と下記の2機の残骸から回収した部品を使って再生したものと推定されます。

 機体の主要構造部は、既に製造番号2877の機体に限定することができないために「合併により引継いだJ5G型JA3023号を使用する」という表現にしているものと思われます。しかし、「その残体」というのが、どれを指すのか疑問がのこります。

 JA3027 1957/08/01 大阪府仙北郡高石町(現高石市)羽衣海水浴場で映画宣伝飛行中に墜落 
 JA3028 1954/02/21 大阪府中河内郡矢田村(現大阪市東住吉区)に放火により墜落焼失

撮影1959/09/29 羽田整備場全日空ハンガー 戸田保紀



八尾空港の極東ハンガーも全日空に 撮影1959/12以降 提供中井潤一

高田
大阪国際空港 撮影日不明 提供高田和彦




墜 落
 再製後は上記写真のように大阪で宣伝飛行業務などに当たっていたものと思われます。

 最後は1960/11/16に帯広市の山林に墜落して生涯を終えました。この事故は、日本のオースター系の最大の事故であると同時に、戦後日本航空界の最大の損失ともいわれました。それは、全日空の中野勝義専務以下4名が犠牲になったからです。ヘリコプター6機による北海道の山林の野鼠駆除事業を視察中の事故でした。中野勝義氏に関しては、興民社から日ペリ、全日空を通じて中心の存在であり、55歳での逝去に惜しみても余りあるもがありました。T54参照 死後、勳3等瑞宝章が授与されています。

 墜落原因は左主翼後方支柱の金属疲労による破損んによる空中分解と言われています。

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E JA3027 J/5G オートカー    6

1952/08/26

c/n2876

1952/12/11

JA登録 極東航空 定置場阪神飛行場

1957/08/01

大阪府仙北郡高石町(現高石市)羽衣海水浴場で映画宣伝飛行中に墜落 3名死亡

1957/08/29

抹消登録

 ゴムまり数百個を海水浴客に投げた後、エンジンが停止して機体がさかさまになり、波打ち際から10mほどの水面に激突しましたが、その地点が羽衣と浜寺海水浴場の境界であったのと、客がいちはやく難を逃れたのが不幸中の幸いでしたが、当然こういうところでの低空宣伝飛行に非難が集中しました。
 皮肉なことに宣伝していた映画は、「翼よ!あれが巴里の灯だ」

撮影1955/11/03 阪神飛行場 中井八郎


撮影1956/04/06 阪神飛行場 Twinbeech



 塗装は、3023とはうって変わってシルバーにブルーのラインでした。

撮影日不詳 提供中井潤一


撮影日不詳 提供中井潤一

                                                   

                                                          TOP

F JA3028 J/5G オートカー    7

1952/09/04

c/n3053

1952/12/11

JA登録 極東航空 定置場阪神飛行場

1954/02/21

大阪府中河内郡矢田村(現大阪市東住吉区)に放火により墜落焼失 1名死亡 2名重傷

1954/03/10

抹消登録

 墜落の原因は、後席からマぐネシュウム粉末と紙くずや板切れが発見され、遺書も残されていたので、乗客の焼身自殺と断定されました。
 現場の矢田村の田んぼは阪神飛行場からほぼ真西に約6kmで、すぐに米海兵隊のHRS(H-19)と産経のヒラ―UH-12Bが飛来したそうです。また、23日には極東の他のオートカーが弔問飛行を行ったそうです。

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G JA3029 J/5G オートカー   8

1952/09/08

c/n3054

1952/12/11

JA登録 極東航空 定置場阪神飛行場

1957/12/01

合併により全日本空輸  定置場大阪国際空港

1961/11/14

抹消登録

 

東京都立航空高等専門学校へ譲渡 教材機として現存

 日本のオースターで一番まっとうな生涯を送っている機体といえます。

極東航空時代 撮影1955/12/03 阪神飛行場 中井八郎


全日空時代 撮影日不明 八尾空港 山田郁央

後席にラッパ様のものを付けています。宣伝のスピーカーでしょうか。

撮影日不詳 提供中井潤一


全日空から都立航空高専へ 撮影2002/11/27 佐伯邦昭



撮影2002/11/27 にがうり


現役時のコックピット 提供中井潤一

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H JA3032 J/5 F エイグレット  9

JA3032の経歴

1952/09/07

c/n2729

1952/12/26

JA登録  おおとり会関西支部 定置場阪神飛行場

1953/07/03

岩国飛行場で転覆事故 1名軽傷

1953

日本商業航空株式会社 定置場八尾空港

1961/05/10

解体

1961/06/03

抹消登録

 この表にあること以外は、不明です。

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