日本民間航空の歴史

開始04/03/01
更新17/07/05

 

 

日本におけるダグラスDC-3 1951年以降の歴史 歴史編 全目次

総  論

@   航空再開から全日空発足まで

A  北日本航空採用からちよだ号の引退までの概観

B  全18機の型式について

C  引退後のDC-3

D  日本のダグラスDC-3の功罪

E  いま日本国内で見られるグラスDC-3 

個別機体

解 説

JALDC-3

 日本航空のDC-3 三日間だけの試験運航 

JA5015

  JA5015  戦後日本の民間DC-3初号機 苦難の スタート 

JA5018

  JA5018  路線就航1番機 でも短命に終わる  

JA5019

  JA5019  全日空定期飛行の最後を飾った長寿  

JA5024

 JA5024  極東航空の1番機 2000年まで屋外展示 

JA5025

   JA5025  飛び降り自殺事件 最後は貨物機

JA5027

   JA5027  日本で最も長く飛んだ民間DC-3      伊藤忠で鉱物資源査             

JA5039

  JA5039  八丈島でバンガローに 

JA5040

  JA5040  極東航空から全日本空輸へ 

JA5043

 JA5043  長崎航空で離島運送   全日空から現物出資と台湾への売却

JA5045

 JA5045  伊豆下田沖の悲劇 航空政策の転換点

JA5050

 JA5050  長寿のC-53 大阪国際空港での絵はがき

JA5058

 JA5058  北海道にハワイアンカラー R1830エンジンの排気管の研究

JA5072

 JA5072  全日本空輸から全日空ロゴへ   台湾への売却

JA5077

 JA5077  大韓航空へリースも   長崎航空使用の怪

JA5078

  JA5078  高度経済成長期を生きたDC-3

JA5080

 JA5080  失踪宣告の謎

JA5100

  JA5100  航空局初代飛行検査機ちよだ号

JA5128

 N493JA5128 航空局ちよだ号と続き番号の怪

R4D-6

 海上自衛隊のDC-3 ”R4D-6” 

番外編

 更 大阪で整備していた 各国のC-47 C-119D 

 新 米海兵隊岩国航空基地のC-119D
番外編 ブライトリングのダグラスDC-3

プラモ

 The plasitic model of the Douglas DC-3 by Yusuke Suka

 

総 論    

@  航空再開から全日空発足まで

我が空は 我が空ならず 秋の空 

                          朝日新聞社航空部長新野百三郎(俳名)霜鳥

 一切の翼をもぎ取られ、脾肉の嘆をかこっていた航空関係者の気持ちをこれほど適切に顕した句はほかにありません 。空を見上げてため息の毎日でした。しかし 臥薪嘗胆の甲斐はありました。対日講和条約の噂が聞こえ、加えて朝鮮戦争勃発などの時代背景が少しずつ希望を抱かせてくれつつあったのです 。
 そして遂に1950年6月26日連合軍総司令部から発せられた覚書SCAPIN2106により航空再開が認められました。雌伏6年の 時を経て、航空有志たちは欣喜雀躍一斉に航空事業へと名乗りを挙げたのです。

@-1 航空運送事業再開

 さて、上記のGHQ覚書をはじめとする一連の航空輸送事業再開の方針をうけて、いくつものグル−プが名乗りをあげましたが、粁余曲折の末、まず日本航空鰍ェ免許を取得し、1951(昭和26)年10月25日に6年ぶりに幹線航空路を復活させました。
 また、各地に、日本遊覧航空、日東航空、青木航空、冨士航空、国際航空、北陸航空輸送、東京航空、極東航空日本ヘリコプタ−輸送、大和航空など中小の航空会社が続々と設立され、使用事業から不定期運送事業へ、あわよくば不定期から定期への目的と希望を抱いて走り始めました。
 その結果は、当然ながら、経営基盤の弱い会社の過当競争など、問題が多発しました。


@−2 国内準幹線は東西2社体制で

 政府は、過当競争を防ぎ、航空事業の健全な発展を図るために、1953(昭和28)年に国際線と国内幹線1社、国内準幹線を東西で2社とする基本方針を定めました。
 この方針により、日本航空は政府出資による(新)日本航空として札幌から福岡までの国内幹線とともに
国際線へ進出することが認められ、日本ヘリコプタ−輸送(以下日ペリ航空という)は東の準幹線に、極東航空は西の準幹線をそれぞれ分担することになり 、運輸省は1953(昭和28)年10月15日付けで日ペリ航空に東京-三沢-札幌、極東航空に大阪-岩国-福岡の旅客輸送と両社に東京-大阪の貨物輸送の免許を与えました。 
 日ペリ航空極東航空は、1953(昭和28)年12月に それぞれ東京(羽田)と大阪(伊丹)を起点とする不定期貨物輸送を開始し、翌1954(昭和29)年2月に極東航空 、3月に日ペリ航空と相次いでデ ハビランド ダブを就航させ、待望の定期旅客運送に乗り出したのでした。

日ペリ航空の路線(1957/10/01まで)
 東京から大阪、名古屋、仙台、三沢、札幌、八丈島、大島、小倉
 大阪から名古屋、金沢、小倉
 名古屋から金沢


極東航空の路線(1957/10/01まで)
 大阪から岩国、高知、高松、松山、小倉、大分、宮崎、米子
 福岡から岩国、宮崎、大分、鹿児島
 大分から松山、岩国、宮崎

 この表は、両社が足掛け5年かけて開設した路線を示します。当時としてはかなりの路線数とはいうものの需要の多くない地域を抱えてダブ、ヘロン、マラソン、DC-3など採算性の低い飛行機では、非常に難しい経営を強いられたのは当然でしょう。

日ペリ航空のデハビランドDH-114ヘロン
JA5152 東京国際空港 出展:杉浦 博    

日ペリ航空のダグラスDC-3 JA5018
東京国際空港 出展:Harby


極東航空のデハビランドDH-104ダブJA5007九州号 ダグラスDC-3JA5025日向号
大分空港 出展:門上俊夫
 

極東航空のハンドレページ1A-104マラソンJA6009
浪速号 高知空港 出展:かつお

 それでも、日ペリ航空は4年度目には単年度黒字になるなど、現在窮乏、将来有望の夢をいだく内容でしたが、極東航空の方は飛行機取得方法(注1)や機材の不備など(注2)で結果的に深刻な問題を抱え、5年度目の決算では資本金の2倍にも当たる累積赤字で、運営資金にもこと欠く状態になっていました。

(注1) 極東航空は飛行機の直接購入による借入金の増大に苦しみましたが、日ペリ航空はリース契約からはじめて、様子を見ながら購入に切り替えるという手法で負債の増加を防ぎました。
(注2) 新鋭機マラソンの主翼にリベットの緩みが発見されて1955年10月4日に耐空証明の効力停止が命令され、その損失とともにイメージダウンによる客離れを招いてしまいました。


@−4 日ペリと極東の合併による全日本空輸の発足

 1955年ごろの国際的な航空事情をみますと、イギリスがいちはやくコメットT型でジェット化の先鞭をつけ、次いでボーイング707、ダグラスDC−8、シュドカラベルなどが華やかに登場しつつあり、小さな会社がひしめいて貧弱な競争を繰り広げている日本の航空界に は、官民ともに何とかしなければという焦りが生じていたのも無理はありません。

 
 
国内線は日本航空、日ペリ航空、極東航空等三社の既設線を現下の経済、産業界の現状を勘案して協同又は再編成の上調整して経営の合理化を図り、以って国内定期航空路網の拡充を期すべきである。

〔世界の航空機1955年1月号 巻頭言 全日本航空事業連合会専務理事和田喜三郎氏の「1955年の航空界の課題」より〕

 東西に分かれていた日ペリ航空極東航空を合併し、日本航空に次ぐ南北の幹線を任せられる会社にしようという動きは、赤字にあえぐ極東の救済もさることながらこうした世界情勢のなかで日本の航空界の成長をという背景が働いたように思います。

 日ペリ航空極東航空の合併は、1956年はじめから約1年かけて精力的に作業が行われました。法経済上の 具体的な内容をみるのは本稿の目的ではないので省きますが、客観的にみて、運輸省、日本商工会議所、日本航空などの強い働きかけやバックアップがあったにせよ、漸く黒字を計上してこれからという時期にあった日ペリが大乗的見地から多くの問題点を受け入れていることが、合併実現の大きな要因になっております。

 合併から新生全日本空輸の発足までの足取りは次のとおりです。

1956(昭和31)年12月28日

合併契約書仮調印

1957(昭和32)年03月15日

両社乗員の相互乗り入れ慣熟訓練、統一オペレーションセンター、社員宿舎の建設等の協議開始

1957(昭和32)年04月15日

次の路線に乗員の相互乗り入れ開始
日ペリ航空
大阪から高知、高松、米子、松山、岩国ー福岡ー宮崎
極東航空
東京から三沢ー札幌、名古屋ー大阪、八丈島、大島、小松、小倉

1957(昭和32)年10月30日

合併契約書調印

1957(昭和32)年11月29日

極東航空株式会社臨時株主総会で合併契約承認

1957(昭和32)年11月30日

日本ヘリコプター輸送株式会社臨時株主総会で合併契約承認

1957(昭和32)年11月30日

この日をもって極東航空は運航の一切の業務を停止する

1957(昭和32)年12月1日

日本ヘリコプター輸送株式会社の商号を全日本空輸株式会社に変更し、旧極東航空の全路線を引き継ぐ(全日空は後に12月1日を創立記念日とした)

1958(昭和33)年02月08日

運輸大臣が事業合併を認可

1958(昭和33)年02月10日

合併契約による合併期日 全日空が極東航空の財産等引継ぎ

1958(昭和33)年02月27日

全日本空輸株式会社株主総会に合併を報告

1958(昭和33)年03月01日

合併登記を行い、全日空初代社長に美土路昌一氏が就任した

 この経緯は、使用機のダグラスDC-3の表示でも確認できます。 F-8  個別機体解説 JA5040 極東航空から全日本空輸へ  を参照してください。


A  北日本航空採用からちよだ号引退までの概観2

A-1 DC-3の採用は意外に遅かった その理由は

 日ペリ航空と極東航空、後の全日空のほかに、ローカル路線会社として旅客輸送の免許を持っていたのは、東京に青木航空(後に日本遊覧航空、藤田航空)、富士航空、北海道に北日本航空、名古屋に中日本航空、大阪に日東航空、九州に東亜航空(後に広島)があ りました。

 そしてこれらの会社が使用していた旅客機は、デ ハビランド ダブ、デ ハビランド ヘロン、ハンドレページ マラソン 、グラマン グース、グラマン マラードなどです。
 なぜか初期にはダグラス DC−3の姿はなかったのです。

 1万機以上も生産されて、第二次世界大戦後世界中に放出されたDC‐3(C-47、C-53、R4D)が日本の航空会社に はじめから採用されなかったのはなぜでしょうか。

 1957(昭和32)年に運輸省航空局検査課長大沢信一氏が航空技術誌上でその理由や背景を次のように語っております。

 
 
ヘロンなどの英国系の機体が、少なくとも現在のような使用目的に対して適当でないことは衆目の認めるところとなって、昔なじみのDC‐3 に逆戻りした。米国では、Trannsport Categoryとしての性能要件に適合しない航空機は1953年12月31日限りで使用させないことになっていたので、一時はDC−3 の値段は下がる一方であったが、1953年10月になってDC−3とロッキード18両機種の過去の安全な記録がものをいってこの制限が撤回されたイキサツもあり、‥‥‥‥
 当初、なぜ昔から評判の良かったDC−3 をさておいてマラソンやヘロンを買ってきたのかと言われると返す言葉もないが、外国の事情がさっぱり判らなかった当時としてはやむをえなかったのである。           1957年発行 航空技術より

 DC−3が採用されなかった理由、そして、採用された理由は結局この大沢氏の証言につくされていると思 われます。なにやら、文明開化の明治初期を彷彿とさせるような当時の航空事情であ り、戦中戦後の混乱と情報不足が続いていたことがわかります。

未確認情報
(1) 青木航空が1954(昭和29)年夏までにDC-3を2機購入し、東京〜台湾の定期路線を計画中という記事が、世界の航空機1954(昭和29)年5月号に出てい ますが、もちろん実現はしていないし、DC-3を最初に導入したのは下記のとおり北日本航空でした。

(2) 日本遊覧航空が伊勢志摩国立公園への観光等のために、東京〜明野〜大阪線を開設し、DC-3を4機とエアロコマンダー2機を購入し、明野の滑走路700mを1200mに拡張するという計画があると、航空情報1958年4月号国内ニュースが報じています。 

 

 

 

A-2 路線等でのDC-3

日本のダグラスDC-3の所属一覧表

c/n

JA/n

1955

1956

1957

1958

1959

1960

1961

1962

1963

1964

1965

1966

1967

1968

1969

1970

2217

5015

北日本航空

日本国内航空

 

6006

5018

日ペリ航空

全日空

 

4247

5019

日ペリ航空

全日空

中日本

伊藤忠航空

 

13194

5024

 

極東航空

          全日空

 

13510

5025

 

極東航空

         全日空

 

1996

5027

 

日ペリ航空

全日空

長崎航空

伊藤忠航空

3253

5039

 

日ペリ

全日空

 

6349

5040

 

極東

全日空

 

3258

5043

 

日ペリ

全日空

長崎航空

全日空

 

7336

5045

 

極東

全日空

 

11729

5050

 

全日空

中日本航空

 

4806

5058

 

北日本航空

日本国内航空

 

4811

5072

 

全日空

中日本航空

長崎航空

全日空

 

2185

5077

 

全日空

大韓

長崎航空

全日空

 

6173

5078

 

全日空

伊藤忠航空

4436

5080

 

全日空

 

1553

5100

 

運 輸 省 航 空 局

3251

N493
5128

 

全日空

全日空

 
 

全日空

 

c/n

r/n

1955

1956

1957

1958

1959

1960

1961

1962

1963

1964

1965

1966

1967

1968

1969

1970

18934

PI-C7

1951

F-0 三日間だけの試験運航 日本航空のDC-3参照

日本航空



A-2-1 北日本航空

 ダグラス DC−3を最初に導入したのは北日本航空で、1955(昭和30)年5月に1号機(JA5015)を購入しました。
 すぐにでもお客を乗せて飛ぶはずのところが、道内の飛行場の未整備などのために免許が取れず、やっと不定期運行が開始できたのは1957(昭和32)年7月札幌(丘珠)→女満別→西春別→札幌の一方通行路線で した。

 4年後の1959(昭和34)年12月には2号機(JA5058)も入 れましたが、定期運行の免許は1962(昭和37)年と遅れ、 以後DC-3とCV240で北海道一円に路線網を敷いたものの、経営赤字に苦しみ、1964(昭和39)年に富士航空、日東航空と合併して日本国内航空に移行し ました。



A-2-2
 日ペリ航空

 北日本航空に次いでは、日ペリ航空が1955(昭和30)年11月にDC−3を2機(JA5018とJA5019)導入し、運送事業免許が取れない北日本航空を尻目に翌12月には東京〜名古屋線に投入し、初期主力旅客機としてのスタートを切 りました。          
 

 この広告は、1957(昭和32)年11月頃の ものです。
 国鉄の急行列車が三等 ・ 二等 ・
特別二等(特ニ)であった時代、「空の特ニ
 日ペリ機で」というキャッチフレーズで汽車に対抗しようとしているのが再開当時の航空事情を物語っております。今では新幹線との競争、鉄と空の競合は絶えることがありません。

 

A-2-3 極東航空

  極東航空も1956(昭和31)年11月にDC−3を2機(JA5024とJA5025)導入し「大和」「日向」と命名して大阪から九州、四国、中国地方への路線に就航させ ました。

 日ペリ航空が関谷産業から運行時間あたりの計算で2機をリースしたのに対して、極東航空は2機を購入したため購入資金の返済に苦しむこととなり、 マラソンの故障による長期欠航もあって経営難に陥り、日ペリ航空との合併にいたることになります。


 
A-2-4 全日本空輸

 合併後の新会社全日空はダグラス DC−3を日ペリ航空から5機、極東航空から4機計9機を引き継ぎ、その後も導入を続けて最終的には延べ15機と戦後の日本の最大ユーザーとなり、赤いダヴィンチマークのDC-3は幹線から離島にいたるまで全国各地にその航跡を印してい きました。



A-2-5 中日本 航空と長崎航空
 
 その他の航空会社では、中部地方でローカル路線を運営した
中日本航空、および長崎県の離島などを結ぶ路線を持っていた長崎航空
が一時全日空のダグラスDC−3を借りて運行し ましたが、やがて路線そのものを全日空に吸収されDC-3も全日空へ戻りました。



A-2-6 長崎航空でDC-3旅客輸送のラストフライト

 長崎航空での最終フライトの1967(昭和42)年11月31日は、同時に日本のダグラス DC−3の定期旅客輸送の最終フライトでもあり、ローカル空路の使用機材は、既に主力の座を確保していたフォッカーF-27フレンド シップ、そしてYS-11、 ボーイング 737へと移っていくのであります。
 旅客輸送を終えたダグラスDC-3は貨物機などとして日本での余生を送ることになります。


 
A-2-6 航空局の飛行点検機

 また、運輸省航空局は、ダグラス DC−3ちよだ号(JA5100)を
飛行点検機に改造し、約9年間全空港と航路の無線保安施設のチェックを実施し ました。
 ちよだ号は日本のDC-3の最後を飾って1970(昭和45)年3月に引退し、これをもって1955年から1970年まで15年間にわたるダグラス DC−3の日本の空における活躍に終止符が打たれました。


 
A-2-7 いろいろな使われ方

 ダグラスDC−3の変わった運用では、伊藤忠航空が全日空引退の3機を使って遊覧航空や貸切飛行のほか、生鮮食料品の空輸やボルネオ海域での石油資源探査飛行などを行ってい ます。

 

 海上自衛隊のR4D-6

c/n

Japan Navy

1958

1959

1960

1961

1965

1966

1970

1971

1972

1973

1974

1975

1976

14643

9021

鹿屋教育航空隊

205教育航空隊

61航空隊

 

N62428

RP-C14

14673

9022

鹿屋教育航空隊

205教育航空隊

61航空隊

 

N62427

RP-C287

16347

9023

鹿屋教育航空隊

205教育航空隊

61航空隊

鹿屋基地史料館

16479

9024

鹿屋教育航空隊

205教育航空隊

61航空隊

 

 


B  全18機の形式について33

 アメリカ連邦航空局(FAA)のSPECIFICATION No. A-699(Jan 8 1974)によると、民間型ダグラスDC-3の分類は次の5種類です。

T  Model DC3A-SC3G
U  Model DC3A-S1CG or DC3A-S1C3G
V  Model DC3A-S4C4G
W  Model DC3C-S1CG or DC3C-S1C3G
X  Model DC3C-R-1830-90C(C-47B,R4D-6,C-117Aタイプ)

 
     ダッシュから後の記号はP&Wのエンジンの名称を示す


 日本に輸入された ダグラスDC-3については運輸省の登録原簿は既に廃棄され、各社の運航日誌その他ももちろんありませんので、唯一参照できるのは、当時航空局検査課の実測データが記載されている鳳文書林発行「世界飛行機(航空機)全集」のみです。

 これによりますと民間18機のエンジンはすべてS1C3G(R-1830-92 1200HP) であり、上のU DC3A-S1C3G又はWDC3C-S1C3Gとして記載されています。

 DC3ADC3Cの違いについては全集1962年版に「DC3AとDC3Cは基本的に同じであるが、交換可能な一部の部品(ブレーキ、尾輪タイヤ、脚オレオ、蓄電池容量、発電機等)が変わっている。」と注記しております。しかし、この程度の相違では、ことさらに型式を分ける意味はな かったと思われます。現に同全集の年版によってA型とC型を行ったり来たりしているのがあったりします。

 また全日空では、
1958年下田沖事故後に全DC-3の仕様統一作業で各機体の相違をなくす努力が続けられており、JA5058を除けば、AとCの区別を議論する実益は失われています。

 
 JA5058は、AiResearchi社の近代化改造でエンジンをR-1830-94(1350HP)に換装していた模様で す。写真ではエンジンカウリングの形状が他機とは明らかに違うのですが、私が目にした限りの資料にはそのことに触れているものがなく、断定できて おりません。事実とすれば上記の例外となります。

 以上のことから、この 研究では、民間18機のAまたはCを次のように分類して整理しておくことにしました。


B-1 DC3A(注:FAA JCABともDCと3との間にハイフンをいれて いない)

 DSTまたはDC-3として生産され民間就航中に軍に徴用されたライトサイクロン付きの機体(C-49系列、後にツインワスプに換装されている)

DSTを徴用してC-49とした

JA5015、JA5128

DC-3またはDC-3Aを徴用してC-49またはC-48とした

JA5027、JA5077

R4D-4として徴用または徴用歴不明のもの

JA5039、JA5040、JA5043、JA5072、JA5100、(JA5058)

      
B-2 DC3A
 

 DC-3として生産途中に軍用に転換され、ツインワスプを搭載した機体

C-53-DOまたはC-53D-DO

JA5045、JA5050


B-3 DC3C

 はじめから純軍用型のC-47、R4D系列で発注されたツインワスプ付きの機体

C-47-DL

JA5018、JA5019、JA5078

C-47A-DK

JA5024、JA5025、

R4D-1

JA5080

   


 海上自衛隊の4機については
G 海上自衛隊のDC-3”R4D-6”を参照してください4


C  引退後のDC-34

日本の空で活躍した民間18機のダグラス DC−3の引退後の行き先は次のとおりで す。 
 

再び海外へ渡航した機体

8機

JA5015,JA5025,,JA5043,JA5050、
JA5058,JA5072,JA5077,JA5128

老朽廃棄

1機

JA5027

老朽廃棄後遊園地などに展示された機体 

4機

JA5019,JA5024,JA5078,JA5100

事故により処分された機体

5機

JA5018,JA5039,JA5040,JA5045,JA5080


D  日本のダグラスDC-3の功罪5

D-1 日本のDC−3の歴史的評価は不十分

 第二次世界大戦後の日本の空を彩った数々の飛行機の中で、ダグラス DC−3は一般にはそれほど脚光を浴びることもなく、記憶のかなたに過ぎ去り、歴史的な評価が十分になされていないように見受けられ ます。
 
D-2 オンボロ飛行機の印象が誤解のもと

 その原因は、過去に世界的に大活躍をした有名機とはいえ、戦後の日本へ旅客機として登場した時期が、既にジェット時代の幕開けを迎えていた1950年代後半(昭和30年以降)であり、ピストンエンジンの尾輪式中古機の再々利用という老朽旅客機の印象を与えてしまったことにある でしょう。

 また1958年に起きた全日空JA5045機の下田沖墜落事故などによって危険な飛行機という誤った烙印を押されてしまったことも不人気の原因とな りました。

D-3 同時期の旅客機のなかではトップクラス

 ダグラスDC-3は確かに時代遅れの中古機でした。社内からさえオンボロ飛行機と陰口もたたかれました。 しかし、戦後民間航空の発展を懸命に支えてくれた丈夫で長持ちのする名機で した。

 15年間にわたって、全日空(日ペリ航空、極東航空)、日本国内航空(北日本航空)、中日本航空、長崎航空、伊藤忠航空などが延べ17機のダグラスDC-3を運行し ました。
 運輸省航空局は飛行点検を在日米軍から引き継ぎ、中古のDC-3を改造して試行錯誤の中からその基礎を 築きました。これらの実績は高く評価されるべきではないでしょうか。
 

 当時、日本で使われていたデ ハビランド ダブ 、デ ハビランド ヘロン、ハンドレページ マラソン、グラマン グース、グラマン マラード、ノール262、コンベア CV- 240などと比べても、また日本航空のマーチン2-0-2、ダグラスDC−4と比べてみても、機数や運行期間など決してひけをとるものではない のです。

D-4 再認識が必要

 私は戦後の日本のダグラスDC-3の活躍を再認識すべきであると考えています。 それは、次の3点においてであ ります。


1  旅客機として、全国の第三種以上の空港のすべてに航路をもっていたこと。

2  約10年間も旅客を運び、かつそれ以上の期間貨物などの輸送にあたっていること。

3  日ペリ航空、極東航空及び全日空の初期の主力機としてその発展に寄与したこと。
 

D-5 特に米国式近代的なシステムの影響

 この中で、3番目の全日空への貢献という点では、狭義の輸送実績以外に、DC-3の運行や整備を通じて得たものの大きさを忘れてはな りません。
 同社の元職員の方は整備など技術面の経験を次のように語っています。

 
 
ダグラスDC-3はそれまでダブやヘロンの英国的(旧日本的)手造り思想、職人的な我流から脱却して、米国式マニュアル標準化によって仕事面の近代化に大きく寄与しました。
                      CONTRAIL No.180 1999/AUTUMNより

D-6 全日空の基礎を築いた

 また、運行面での貢献については、1964(昭和39)年3月15日定期路線からの引退飛行に出発する前に河瀬氏が読み上げた次の歓送のことばに言い尽くされています。


歓送のことば  全日空東京運行所所長 河瀬 士郎

  本日の801、2便の就航を最後に.当社ロ−カルラインより華やかな引退をすることになりました、ダグラスDC−3型の送別をするにあたりまして、一言歓送のことはを述べさせていただきます。
  顧みますと、同機は昭和30年11月より新鋭機として全社員の期待と希望をその双翼ににない、名古屋、大阪、三沢、札幌路線に就航いたしました。昭和35年度には、その就航機数は13機に及び、国内の航空路をあまねく網羅し、
今日の全日空の基礎を作りました。この間DC−3型のあげた成績は137,000 時間におよび、200万人のお客を運んでいるのであります。
  しかしながら、時代の推移とともに当社におきましては、レシプ口エンジン機よりタービン機、更に純ジェット化と逐次機種統一と合理化をすすめてまいりましたので、この愛機も後続機に道をゆずることになり、惜別の念ーしほであります。
 黙して語らず、社業の達成に尽力をしてくれたこの愛機に対し、われわれは拍手をもって本日の飛行を見送ります。


(出典全日空)


D-7 不幸な事故もあった
 

 しかしながら、一方でダグラスDC-3が大事故を起こし、マスコミと国会が中古のダグラスDC-3にきびしい批判をあびせたこともあります。たしかに事故が起きてもやむをえないような実態もあったようです。


D-8 航空政策を転換させたこともある

 事故を正当化するつもりは毛頭ありませんが、結果として、大事故が航空輸送事業の安全対策を促す契機になっていることも認めざるを得 ません。その典型を
JA5045の下田沖墜落事故に見ることができ ます。

 運輸省による施設近代化予算の要求を本気で取り上げてこなかった大蔵省が、事態の重大さに驚いてようやく重い腰をあげはじめ ました。それは国直轄の施設の見直しにとどまらず、民間企業である全日空に対してDC-3機体改造費を補助するところまで及んだのです。あまり注目はされていませんが、私は民間航空政策の大きな転換点であるとみています。
 ただし、それが100パーセント完全な航空政策への転換であったかどうか、あるいは事故原因の徹底的な究明をした上での方向付けであったかどうかは別問題で すが。


D-9 日本のダグラスDC−3の見直しを

 さて、こうした戦後日本のダグラス DC-3の実態や功罪を1機づつの歴史を掘り起こしつつ、新たな光をあてていきます。
 折に触れ目を通して頂いて、名旅客機の活躍や不幸な歴史あるいは当時の技術などに触れていただければ望外の幸せです。
6

 


E  いま日本国内で見られるグラスDC-36

E-1 民間機

 Cに示したように、日本の空で活躍した民間DC-3のうち4機が展示されていましたが、2000年12月に北海道深川市のJA5024が解体撤去されたのを最後にすべて展示場から姿を消しました。

JA5019

茨城県水戸市水戸偕楽園、富山県黒部市宮野運動公園

JA5024

滋賀県大津市雄琴温泉、北海道深川市桜山レジャーランド

JA5078

栃木県小山市小山遊園地

JA5100

山梨県都留郡上野原町

 2003年現在、それらの機体の一部が個人宅や倉庫に存在しているという情報はありますが、発表は差し控えます。
 

 日本で飛んだグラスDC-3ではありませんが、東京国際空港の全日空機体メンテナンスセンター玄関(注)にはDC-3のノーズセクションが展示してあり、コックピット計器などを観察することができます。


 このノーズセクションは、1988年7月に全日空と全日空整備の担当者がアリゾナ州ツーソンの航空機ジャンク屋に買付に行き、3機のC-47の中から程度の良かった1機を購入し、現地でノーズセクションを切り離し日本に持ち帰った ものです。

 ツーソン〜ロスアンゼルスはトラック、ロスアンゼルス〜成田は全日空系列のNCA機で運搬し、1989年12月に伊丹の全日空 整備株式会社工場へ搬入して、3ヶ月かけて全日空のDC-3仕様に改造しました。既に入手できない部品もあり完全な復元とはいえないまでも、内部の操縦席や計器盤も外回りもかっての全日空機を想像するに十分な仕上がりになって おります。
  ツーソンではエンジン、プロぺラ、計器類が外されたスクラップのためフライトログなどがなく、したがって、製造番号など経歴は不明です。

(注) 全日空機体メンテナンスセンター玄関にはこのほかプラットアンドホイットニーR-1830エンジンや実際に使っていたL-1011トライスターのフライトシュミレーション操縦席の実物が展示されています。東京モノレール新整備場駅下車、徒歩約10分


E−2 海上自衛隊機

 海上自衛隊鹿屋航空基地史料館の飛行機公園にダグラスR4D-6Q 9023が展示してあります。日本で唯一の実機展示です。羽布部分は金属板に取替え、各扉はリベット止めし、毎年塗り替えられてはいますが、1972年の退役から30年以上経過し、展示機としての命運が問題になりつつあります。

 G  海上自衛隊のDC-3”R4D-6”を参照してください

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協力者 (作成中)

参考文献 年鑑 年表 社史 回想録

証言と写真で綴る日本航空史年表

1992 日本航空協会

航空年鑑 航空宇宙年鑑

1964〜 日本航空協会                                                     

日本航空機全集 日本飛行機全集 (世界の航空機増刊)

1962〜 鳳文書林

世界航空機年鑑 (航空情報臨時増刊)

1958〜 酣燈社

世界の翼

1962〜 朝日新聞社 

大空へ二十年

1963 全日本空輸

全日空三十年史 限りなく大空へ  同資料編

1983 全日本空輸

日本航空二十年史

1974 日本航空

日本航空社史 1971〜1981

1985 日本航空

日本航空整備株式会社十年史

1963 日本航空整備株式会社

飛行検査30年の歩み

1992 飛行検査30周年記念事業実行委員会

管制保安部20年のあゆみ 

1992 管制保安部20年のあゆみ編集委員会

参考文献 単行本 別冊

宮本晃男 ダグラス式3型旅客飛行機取扱解説

1943 育成社弘道閣

世界の傑作機66 
ダグラスC-47スカイトレイン昭和零式輸送機

1975 文林堂

丸メカニック 31 DC-3/零式輸送機

1981 潮書房

図解・軍用機シリーズ15、飛龍/DC-3・零式輸送機

2001 光人社

週刊エアクラフト26 世界の名機大百科 
ダグラスDC-3/C-47  

1989 同朋舎出版

日本航空史 昭和戦後編  

1959 日本航空協会

山田照夫 空とぶカメラマン 私の仕事史  

1979 中央公論社

仁徳夢

1998 全日本空輸浅倉博追悼本出版委員会

駿河昭  自由の空(続・大空の証言)

1998 日刊航空新聞社

神田好武 こっくぴっと

1977 航空新聞社

石崎秀夫 機長のボイスレコーダー ヒコーキ野郎のコックピット秘話

1994 講談社 

石崎秀夫 機長のかばん

1997 講談社

小倉勝男 航空原動機

1964 共立出版 

航空用語辞典 増補新版  

1983 鳳文書林 

航空史をつくった名機100 (航空情報別冊)   

1971 酣燈社

航空用語事典 (航空情報別冊) 

1971 酣燈社

雑誌など

雑誌 世界の航空機

鳳文書林

雑誌 航空情報

酣燈社

雑誌 航空ファン

文林堂

雑誌 航空ジャーナル 

航空ジャーナル 

雑誌 エアワールド

エアワールド社

航空技術 

日本航空技術協会

広島航空クラブニュース  ヒコーキ雲 CONTRAIL

ヒコーキの会機関紙

洋書

DC-3 Production List Part1-15 by John Maureen Wood

DC-3 Production List LAAS International

The Douglas Commercial Story by Peter Berry Air-Britain  1971

The PLANE that changed the WORLD by Douglas J. Ingells  1966

The DOUGLAS DC-3 by Arthur Pearcy PROFILE  1996

Weapons book no44 DC-3 by Auther Pearcy 1972

Famous Aircraft Series The DOUGLAS DC-3 by Len Morgan  1964

FAA AIRCRAFT SPECIFICATION NO.A-699

USAF HANDBOOK ERECTION AND MAINTENANCE INSTRUCTIONS C-47 R4D  1944

USAF SAFTY OF FLIGHT SUPPLEMENT FLIGHT MANUAL C-47 R4D C-117  1960

USAF T.O. ILLUSTRATED PARTS BREAKDOWN  1967

USAF T.O. MAINTENANCE INSTRUCTIONS C-47 R4D  1974

CANADIAN FORCES DISCRIPTION AND MAINTENANCE INSTRUCTION C-47 C-117  1971 

DOUGLAS DC-3 FLIGHT TRANING MANUAL by Don Chalmers

THE DAKOTA by Auther Pearcy  1972

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