日本におけるダグラスDC-3 1951年以降の歴史全目次t

 

F-2 個別機体解説 JA5018 
             
        定期就航1番機 でも短命に終わる
 

JA5018の製造番号・形式・主な経歴
形式 c/n 6006  C-47-DL → DC3C-S1C3G
1942/11/21 USAAF 41-18645
194511/2 Standerd Airlines NC49840
19**/*/* Gilis
19**/*/* Pacific Southwest Airlines
1955/11/02 輸入 羽田に到着
1955/11/15 JA5018登録 日ペリ航空(関谷産業からリース)

東京国際空港 Harby
1955/12/06 三沢飛行場で給油中にCATのC-46の翼端が接触し、方向舵を損傷
 
撮影1957 東京国際空港 戸田保紀
1957/12/1 合併により全日空

撮影1958/07/27 東京国際空港 出展:杉浦 博
1958/10/16 大分空港でオーバーラン事故、4ヵ月後復帰
1960/3/16 名古屋空港で航空自衛隊第三航空団F-86D(94-8137)と衝突 
1960/9/26 JA5018抹消登録


日ペリ航空のDC-3 1号機 定期路線でも1番機

 

アメリカから45時間で羽田空港へ
 
 日ペリ航空がダブやヘロンに代わる旅客機として期待を込めて導入したDC-3第1号の本機は、関谷産業がPacific Southwest Aialines(California)から購入し、サンフランシスコからホノルル、ウエーキ経由で45時間かけてフエリーし、1955(昭和30)年11月2日に羽田空港に到着し ました。雑誌によるとFAAは発動機と胴体をゼロアワーで輸出させたので、日本では46飛行時間目からのスタートということになります。

人気商売

 日ペリ航空はDC-3からスチュワーデスを乗務させることとし、募集してみたら1000人もの応募があったという ことです。この時合格した6人が日ペリと全日空を通じてのキャビンアテンダント第1期生です。

路線就航1番機

 本機は、1955年11月16日から運行を開始しました。本機よりも半年早くJA5015を買っていた北日本航空 は運行許可がでないまま、日ペリ航空のJA5018に定期路線就航一番機の記録をとられてしまったのですた。

 ただし、日ペリの方も本来なら1955(昭和30)年夏から投入してヘロンのオーバーホールに入る予定にしていたところが、輸入が遅れ て11月からの就航になっています。このためにヘロンを同年8月10日から9月30日まで一部路線を減便して休ませ、オーバーホール時期の延長を行なったという ことです。


 
撮影1957年 東京国際空港 JA5018 西側デッキの学生さんご一行 戸田保紀

 


稼動5年弱の短命に終わる

 

 そんなこともあって、本機は「路線就航一番機の栄」をもつとはいうものの 、実はあまりよい末路をたどっておりません。

 
芋畑に突っ込む

 最初の事故は、1958(昭和33)年10月16日午後2時37分に起きました。
 大分空港へ着陸接地した際に約20ノットの突風にあおられて滑走路外の芋畑に飛び出しました。幸いに人的被害はなく、翌日には離陸し ましたが、修理に約4ヶ月もかけることになりました。

悲劇的最後

 1960(昭和35)年3月16日午後7時40分ごろ全日空ダグラスDC-3JA5018が名古屋空港に着陸し、滑走路端をUターンして誘導路に向かってタキシングしていたところ、離陸滑走してきたた航空自衛隊第3航空団のF-86D(94-8137)が右主翼に衝突、更に後部胴体と尾翼に衝突し ました。

 DC-3は大破しました。乗客2人と客室乗務員1人が死し、乗客8人が重軽傷を負い、一方のF-86Dは炎上しましたが乗員は救出されて無事でした。

軍民共用飛行場の問題を浮き彫り

 事故原因は、自衛隊機に対する管制官の離陸許可が早すぎたためと断定され、名古屋地方裁判所は1962(昭和37)年10月管制官に対して執行猶予付き有罪判決を言い渡しました。
 民間は名古屋空港、航空自衛隊は小牧基地として滑走路を共有する飛行場の管理の難しさが浮き彫りにされた事故で した。


間一髪

 日本航空史研究会JAHS代表の幸田恒弘氏は、その時小牧基地内でF-86Dの整備作業をしていました。ちょっと腰をかがめた瞬間に轟音とともに何かが飛んできて頭をかすめたそうです。

 すぐに事故現場へ走って救出活動をしたことは言うまでもありませんが、あのとき何か工具を取ろうとしていなかったら..........!

 写真はその「間一髪ブレード破片」です。全日空ダグラスDC-3のブレード先端の黄色塗料とともに滑走路を叩いで破断した無数の傷が何よりの証拠です。後日守り神として持ち帰りました。(もう時効の話しです)

F-2 完