日本におけるダグラスDC-3 1951年以降の歴史全目次t

       

個別機体解説 JA5080  失踪宣告の謎

 

JA5080の製造番号・形式・主な経歴
形式 c/n 4436 R4D-1 → DC3C-S1C3G
1940/1/13 US NAVY 01980
1947/1/31 N9197Z
11951/10/* Lansa/Avianca HK-314
1961/3/31 全日空 JA5080登録 貨物専用機 

東京国際空港 撮影1962/07/12 g江澤敏一a-o


 客室内に貨物固定用のネットらしきものが見えます




客室窓は遮蔽されている  東京国際空港 撮影1963/03/19 赤塚 薫


東京国際空港 撮影1963/05/02 赤塚 薫


 

1965/2/14 愛知県知多半島上空で消息を絶ち、一帯で大捜索活動が行われるも発見できず
11965/4/14 JA5080抹消登録 (航空法第8条第1項第2号により2ヵ月以上不明の場合の特例適用)
1966/2/14 乗員2名の失踪宣告申立 (民法第20条第2項の特例適用)
1966/12/29 静岡県中ノ尾根山で墜落機体発見

 

失踪宣告の謎

全日空貨物専用機

消息を絶つ
 1965(昭和40)年2月14日、本機はアルフレッド ハウゼ タンゴオーケストラの楽器など144個1,870sの貨物を搭載して午前3時50分に伊丹を離陸、同4時25分愛知県知多半島河和VOR通過、同4時39分浜松通過見込みと連絡してきました。そして消息を絶ちました。



失踪宣告
 
最終連絡の地点から推定して渥美湾や遠州灘沿岸部での遭難とみられ大掛かりな捜索が行なわれましたが発見できず、行方不明と断定されました。

 全日空は2ヵ月後に本機の登録抹消手続きをとり、また、正副二人の操縦士についても翌年に失踪宣告の申立てが行われました。

 全日空発行の文献などに機体そのものに失踪宣告が行われた記述がありますが、それは間違いです。下記参照


捜索地域とは反対方向の山中で発見
 JA5080の墜落残骸の発見は1年10ヶ月後の1966年も押しつまった12月29日でした。意外なことに沿岸部から遠く離れた浜松市の北北東約70kmの南アルプス中ノ尾根山(2,296m)の山頂付近で、鹿狩りの猟師が雪の中から見つけたものです。

 なぜ知多半島から左に旋回していったのか、温暖前線が東進し激しい雷雨と突風の中で計器が誤作動したのではないかとみられております。


失踪宣告の取り違え

記事対象 @ 航空情報1976年5月号 年表戦後航空30年史2 酣燈社 p172 1966.2.14の項  

 昨年2.14に大阪から東京へ向かう途中、知多半島上空からの連絡を最後に消息を絶った全日空DC-3貨物機に対し、全日空が日本民間航空史上初の「失踪宣告」


A 日本航空史年表 1981年 財団法人日本航空協会 p220 1966.2.14の項
 全日本空輸、知多半島で消息を絶った〔1965.2.14〕貨物機の「失踪」宣告


B 同  p236 1966.12.29の項    
 全日本空輸から”失踪宣告”が出されていたDC-3貨物機〔1965.2.14消息を絶つ〕、静岡県の原生林中で発見、乗員2人の遺体も確認


C 限りなく大空へ-全日空の30年 <資料編> 1983年 全日本空輸株式会社p216 1966.12.29の項 ”失踪宣告”が出されていたDC-3貨物機〔昭40.2.14消息を絶つ〕、静岡県磐田郡尾根山の原生林中で発見、乗員2人の遺体も確認

問題点  全日空がDC-3JA5080貨物機に対し「失踪宣告」を発したという記録が見当たりません。

 全日空は1965/02/14に消息を絶った2ヵ月後の1965.4.14に航空法第8条に基づき「まっ消登録」をしており、この時点でJA5080は法律上の日本国籍を失っております。

 したがって1年後に「失踪宣告」をする実益はないし、物体に失踪の宣告をするという法律はありません。

 ただし、乗員2名については、民法第30条第2項の特例により1年後に「失踪宣告」の申し立てをしたと思われます。 

 1965/02/14というと、ボーイング727の東京湾墜落事故から10日目で、全日空社内は緊急事態の最中、日本民間航空史上初の・・と強調されるような重大発表をする雰囲気でもないし、その必要もなかったとみるべきではないでしょうか。

 マスコミの誰かが墜落機体発見時に人間と機体を混同したミスがそのまま各社に引用されてしまったものと思われます。