HOME・SITEMAP 日替わりメモ 伝説の時代から現代まで 航空史抜き書き  top

関連 京都府A5411 山梨県A3931 埼玉県A3114 浜松広報館A4514

 

航空歴史館 守屋登氏の遺志を継いで復元されたノースアメリカンT-6F 52-0010
 
資料提供 航空機復元協会


ノースアメリカンT-6F 52-0010の経歴 

前史 1955/02/01 c/n121-42395 AT-6F US44-81673 T-6Fとして航空自衛隊へ供与
1959/12/15 用途廃止
1964 @ 京都市伏見桃山城キャッスルランドに展示
1977/02/28 岐阜基地へ返還
1978 払下げ 守屋登氏が購入
1978 A 一時 河口湖自動車博物館へ保管した模様
復元展示 1980年ごろ B-1長野県富士町において復元にとりかかる
1996/04/24 守屋登氏逝去
1999/05 B-2 故守屋登氏の遺志を継いで仲間が修復開始 場所は入間基地  
1999/10/09 C 浜松広報館へ輸送
1999/10/11 D 航空自衛隊へ寄贈 浜松広報館に展示
追記 2000/09 E T-6G 72-0119号機残骸をオメガテクノランドへ搬出  

 

ノースアメリカンT−6F 航空自衛隊浜松広報館に蘇る  5

 

守屋昇氏遺児 成章君の作文 ”お父さんの夢”

学級文集1999年11月1日 担任の感想も添えて


 
 

   

浜松広報館に展示 提供 渋谷義夫 A7M3-J  

1999/10/11 航空自衛隊への贈呈式 右から2人目が故守屋氏の夫人 守屋ういさん


航空機復元協会渋谷義夫会長から守屋ういさんに絵画の贈呈


 





当時のゆったりした館内


T-6を置くために零戦が天井へ移動

TOP

     

手記

                              1999年10月                         
                                         
                                  防衛装備保存振興協会 理事 冨永泰史

 

 私の朋友の守屋 登君が亡くなって3年半が経過いたしました。

 彼は1970年航空自衛隊から全日空に入社、勤務の傍らT−6を米軍からの払い下げで入手してライフワークとして、これを復元してリノのT−6のレースにでる夢を持っていた。従って彼の新婚旅行もリノのエアーレースの見学、根っからの飛行機野郎だった。羽田勤務から仙台に転勤になったが子供さんの学校の関係で単身赴任しており、休日は専ら費用の安いウルトラライトで操縦の腕を磨きながら楽しんでいた。

 1996年4月24日に三河式HA600R44L型HOME・SITEMAP・サイトマップビルト機を操縦中、ボルト切断により空中分解して墜死しました。本当に好い奴を亡くして慙愧にたえず、お通夜の時、何かあった時、飛行機のことは冨永さんに相談せよと、常日頃話していたと奥さんから聞かされ 、相談を持ちかけられました。

 しかしT−6を復元して飛ばす力は無いがせめて展示機として何とかなるだろうと思い努力することを約束いたしました。米国からの引き合いもありましたが、何とか日本の博物館でと、 各地の博物館に話しましたが、何れも興味を示さず空転を続けておりました。

 私は、防衛装備保存振興協会の会員になって民間の発想で会の運営の仕事を手伝って居ります。当協会は、当初航空自衛隊OBが主力で日本のスミソニアンのような博物館の設立を目標に航空宇宙科学博物館協会の名のもとに1989年に設立された のですが、バブルの後遺症で資金のめどが付かず公益法人化を諦め、93年には名称も変更して防衛庁にターゲットを絞り、米空軍のパタアソン空軍博物館、英空軍のロイヤル  エアフォース博物館のように航空自衛隊の独自の博物館を持つべきとの提案を繰り返して働きかけておりました。その 甲斐あってか95年に予算が認められ、総額60億円がつき99年3月に航空自衛隊広報館として浜松に開館の運びとなりました。
 翻って当協会の98年度の総会において、会員の老齢化と初期の目的だった広報館の完成で目的達成されたのを理由に解散の動議があり98年度末をもって解散する方向で結論がでました。 しかし協会の残余金の使途等の問題等の論議があり有意義に使う方法として、守屋機のT−6機の譲渡を受けそれを整備して、協会の顕彰事業とすることを私は理事会に提案したところ、全理事の賛同が得られました。
 もっとも残余金といっても300万円たらずで、飛行機に費やす金額はせいぜい200万円、何とかこの金額で受けてくれるところは、整備学校の実習で何とか実現できないかと某航空学校にお願いしましたが、800万円以下では受けられぬとの返答に万事休す。
 
 しかし、天は自ら助けるものを助ける、との故事の通り{立川に航空博物館を作る会}のドルニェDO−28型機の復元を手がけたボランテア団体の保存機復元協会の渋谷義夫会長に実情を説明して協力を依頼したところ、彼も航自OBで飛行機野郎、快く引き受けてくれました。問題は整備する場所だったが、幸いにも寄贈先が航自浜松広報館、その上当協会の松永貞昭代表は元中部方面航空隊司令官だったし、理事の松井滋明氏は元航空総隊司令部飛行隊司令と入間基地出身者だったのも幸いして、基地を利用する等便宜供用を得る事が出来ました。

 4月の連休を利用して長野県富士見町の保管場所から搬出全日空の同僚だった渡辺協一、石渡謙司両氏の協力を得てトラックで入間基地に搬入して準備を進めましたた。
 
復元機協会メンバーは、
・ 会長の渋谷義夫氏は町田市の自衛隊協力会の会長で、かつて米軍横田基地でステアマン機やパイパー機の復元を手がけたベテラン
・ 輸入自動車の修理販売業の山本達雄氏は板金,小物の製作の器用人
・ 古典機についての知識の物知り博士でステンシルの切紙作りの名人の青木秀康氏
・ 自動車会社の下請け部品メーカー勤務の渡辺峰男氏
・ 足場パイプ無償提供の工務店主の佐藤和幸氏
・ 若い時にグライダ−メ−カー出身で現在タクシー会社勤務の小山岩夫氏羽布貼りの第一人者、
・ 飛行クラブ勤務で塗装名人の進藤利朗氏
・ ,ガソリンスタンドの定年退職者で,最後の追いこみのウイーク−デーを渋谷氏と頑張った吉田洋古氏と多士済済のメンバー、何より飛行機が好きな連中で各々が特技を持った集団でした。
 各々が割り振られた仕事を休日ごとに出てきて文句を言わずに嬉々として働いている姿には頭がさがりました。特にこの機体は戦前に作られ何十回となく塗り替えられて居るのでリムーブが大変な仕事でした。1回や2回では中々塗料の剥離が出来ないボルトナットも錆びついていて大変な苦労の多い仕事でした。

 幸いなことに守屋君が復元を計画して部品工具を買い揃えていてその整理の良さには敬服しながら、それが使用出来ておお助かりでした。また特にこの夏は異常の暑さで苦労は大変 でしたが、ほとんど雨が降らず屋外作業にも拘らず仕事は予定通り進み、塗装のカラーは米軍が使用していたFS595の13538日本のJIS Y−19Xのウレタン塗料を使用ロゴも忠実に再現され 素晴らしい完璧の仕上がりでした。9月末には細部を除いて完了10月10日に浜松に搬入11日に寄贈式が予定通り実施されました。

 当日は、第一航空団司令兼浜松基地司令松江空将補、元航空幕僚長で日米エアーフォース友好協会会長の石塚 勳氏、協会活動を物心両面で支えてくれたパイロット〔株〕社長の坂井恒則氏,守屋未亡人渋谷会長当協会松永代表のテープカットがハイライト松江司令官の感謝の言葉,や石塚氏の ボランティアの人々に対する御礼の言葉と松永代表の答弁で寄贈式は無事終了して、司令部VIP食堂で会食、松永代表より守屋未亡人、ボランテヤに参加した方々に感謝状を授与して無事式は終了いたしました。

 あんな僅かな資金で完全なまでに復元出来たことはボランテアア各位の努力の賜物と感謝の気持ちで一杯です。 当時T−6はT−6D型9機F型11機、G型140機が米軍から貸与された、その中の1機のF型で貴重な機体です。

 私はこの大任を果たせた事は無上の喜びであり、ボランテアの方々に対し心より敬意と感謝をこめてこの文を記しました。 

TOP

 

前史

@ 伏見桃山城キャッスルランドに展示   1

 伏見桃山城キャッスルランドは近鉄が1964年に開園しています。説明板文中の「30機位」と「ほとんどは救捜索機として活躍」から、最後のT-6訓練部隊の第15飛行教育団(静浜)が解隊された1964年に書かれたものと推定され、開園と同時に展示されたのではないでしょうか。

撮影1965年〜1971年の間 優一郎


TOP

 

A 河口湖自動車博物館に保管    2

 1978年に、守屋さんが岐阜の第二補給処で払下を受け、一時保管場所として河口湖自動車博物館へ預けたものと推定されます。この後、作業用地に購入した長野県に運び、復元に取りかかかったものと思われます。

故守屋登氏のアルバムより 撮影年月日不明   提供 A7M3-J
 

尾部が欠けている

 



52-0010の証拠  ただし、上の写真とは別のネガなので、河口湖で写されたかどうかは確証がありません。
 

米軍シリアルのネームプレート                      同判読
 

   2008年に写されたT-6、別の機体と思われます。

    撮影2008/08/31 小規模板工房
   

                                                                                                                                                               TOP

 

 

復元    3-1

B-1 52-0010号機その他守屋氏が買い集めていた部品と工具類の箱 提供 A7M3-J 

1999/04/18長野県富士町の別荘地にて
 








 

復元     3-2

B-2 航空自衛隊入間基地における復元作業 提供 A7M3-J  

1999/05/02(日曜日) 入間基地にて作業前の状態 (搬入は04/29)


エンジンカウルの一部が中央高速で吹っ飛んだ(幸いに後続車がなく大事に至らなかった)
 


1999/05/03(祝日)
 何重にも塗り重ねられてきている塗料の剥離から作業開始
 

 



1999/05/09(日曜日)
 

 
垂直安定板は誤って#119のを持ってきていた(胴体は#010 5月16日参照)
 

 

 

1999/05/16(日曜日) 錆を落としてみると米軍マークの痕跡が現れた


 
航空自衛隊の#010も明瞭に
 
主翼と機首の機銃口
 

 

 


1999/05/30(日曜日)
 

 

 

 

 


1999/06/13(日曜日)



1999/06/20(日曜日)
 

 


1999/06/27(日曜日) 下部の剥離剤は激痛と戦いながらの塗布



1999/07/04(日曜日) F型の最大の特徴である後部風防 
 

                                         無数のクラックで曇りガラス状
 

  

 
1999/07/11(日曜日)
 

 


1999/07/18(日曜日)〜19(月曜日)
 

 


1999/07/20(火曜日) 航空ファン 瀬尾カメラマンが取材  

 航空ファン1999年10月号にレポート 「居酒屋のオヤジは航空機修復の実行者 渋谷義夫さん」 

 

  

 
1999/08/01(日曜日)
 


1999/08/08(日曜日)
 


1999/08/15(日曜日) 塗装と羽布張り
 

 

 


1999/08/21(土曜日) 下地サーフェーサー           二度塗り前にいたずら書き
 


1999/08/22(日曜日) 目止め剤塗布
 

O.C.C.さんの撮影 1999/09/04(土曜日) 作業をしていない日でした

 
 
 




1999/09/05(日曜日) サーフェーサー完了 
 
動翼に銀ドーブ塗布
 


1999/09/12(日曜日) 塗装は航空機塗装の本職に依頼 


 

 
動翼は羽布張り名人がみずから塗布
 


1999/09/15(祝日)
 


1999/09/23(祝日)
 

 

 




1999/10/02(土曜日)
ステンシルづくり おっとAが抜けていた
 

タイヤは補修して使用 
  


入間基地における復元作業完了

 
                                                                          TOP

 

C 浜松広報館へ輸送 提供 A7M3-J     4

1999/10/09 搬出作業  










1999/10/10 浜松基地に到着


1999/10/10 組立作業前






1999/10/10 太陽の光を浴びる最後の勇姿





TOP

6

 E T-6G 72-0119号機残骸をオメガテクノランドへ搬出  提供 A7M3-J      

 0010号機の復元完了からほぼ1年後の2000年9月に、守屋さん収集機で残されていた0119号機の回収作業を行いました。

72-0119の経歴 

1955/10/04 c/n182-664 US51-14977 航空自衛隊へ供与
1965/05/01 用途廃止
  栃木県宇都宮市 作新学園へ貸付展示
撮影 FA300
1978 守屋登氏が引取 長野県富士町に保管
1996/04/24 守屋登氏逝去
2000/09/03 神奈川県相模原市オメガテクノランドへ搬出
  東京都町田市 サレジオ工業高専へ寄贈
  相模原市本多鉄工建設へ異動

                 

 
 


        









本来0010号機のものだったと思われるF型仕様の垂直安定板
 






T-6G 72-0163のジャンク品

TOP