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航空歴史館 国立公文書館所蔵資料に見る航空の歴史

大東亜戦争前 1909(明治42)年 臨時軍用気球研究会の設置
1909(明治42)年 臨時軍用気球研究会委員の任命
1920(大正9)年 航空局官制制定
1920(大正9)年 飛行機事業拡張の請願採択
1921(大正10)年 航空法案可決
1922(大正11)年 航空局の陸軍省から逓信省への移管
1927(昭和2)年 航空法公布
京都府八幡市 1927(昭和2)年 二宮忠八勲六等瑞宝章叙勲の閣議決定
宮崎県延岡市 1928(昭和3)年 故後藤勇吉勲六等瑞宝章叙勲の閣議決定 
山口県下松市 1928(昭和3)年 故長岡外史旭日大綬章叙勲の閣議決定 
A3632-46 新 1930(昭和5)年 御国飛行学校フィルム 飛行家になるまで
(日本航空協会出展) 
1931(昭和6)年 チャールス リンドバーグ叙勲の決済文書
1938(昭和13)年 東京都市計画 東京市飛行場新設
1944(昭和19)年 東京大学名誉教授田中館愛橘の文化勲章授与の上申書
大東亜戦争後 1945(昭和20)年  戦後航空緊急施策要領案 次官会議了解事項
1945(昭和20)年  大日本航空株式会社法の廃止 閣議決定
1950(昭和25)年  連合軍最高司令官覚書2106号 国内航空事業運営の件
1950(昭和25)年  連合軍最高司令官覚書2106号-1 国内航空事業運営の件
1950(昭和25)年 国内航空運送事業令 閣議決定文書
1951(昭和26)年  航空路開設の閣議了解
T52-1 1957(昭和27)年 羽田飛行場(東京国際空港)の返還 運輸省文書
1957(昭和27)年  航空法の公布 内閣法制局文書
1957(昭和27)年   日本航空株式会社法の公布 閣議決定文書   
   

   
A3601-09 東京都千代田区北の丸 国立公文書館
              National Archives of Japan
, Chiyoda-ku, Tokyo Metropolitan
                        

◎ 公文書 臨時軍用気球研究会の設置気球研究会

 1909(明治42)年1月、通信その他新兵器の調査研究のために参謀本部に第七課が設けられ、気球についての検討も開始され、同年7月27日の閣議で臨時軍用気球研究會の官制が決定されました。国による公式航空機活動が第一歩を踏み出したといえます。

1909(明治42)年7月27日閣議決定文書    撮影2017/05/30 翔べ日本の翼展にて 佐伯邦昭(以下同じ)

  
  

◎ 公文書 臨時軍用気球研究会委員の任命   気球委員

 上記に基づいて、翌28日に長岡外史中将ほか13名に委員の辞令が交付されました。 田中館愛橘、日野熊蔵、相原四郎、奈良原三次、徳川好敏など日本の航空に名を残した方々が含まれています。

天皇へ奏上するための公文書

       

公文書 航空局官制制定   航空局

 大正時代初期(1912〜)は、帝國飛行協会設立など民間人による航空活動の勃興期にあたり、国が本腰を入れて航空の振興にあたるよう国会請願などが行われていたことを背景にして、1919(大正8)年4月に陸軍省が航空課を設け、10月には逓信省も加わって臨時航空委員会が設けられて、外国の制度などの研究が開始されました。

 翌1920(大正9)7月23日に航空局が設置されました。閣議決定内容に「陸軍大臣請議(発議)」とあるように引き続き陸軍省が主体で、省内に航空局第一課〜第三課が設けられましたが、課員は陸軍、海軍、内務省、逓信省(船舶関係)から選抜され、セクトの確執もなく万事会議で決められていったとのことです。(1975年刊、日本民間航空史話による)

航空局官制制定閣議決定文書

 

内閣総理大臣 原 敬

外務大臣 内田康哉

内務大臣 床次竹二郎

大蔵大臣 高橋是清

陸軍大臣 田中義一

海軍大臣 加藤友三郎

司法大臣 原 敬

文部大臣 中橋徳五郎

農商務大臣 山本達郎

逓信大臣 野田卯太郎

鉄道大臣 元田 肇

 

 

 

 

公文書 飛行機事業拡張の請願採択   請願



帝國飛行協会会長大隈重信提出の請願が貴族院で議決された旨の原内閣総理大臣への通告


公文書 航空法案  航空法案

航空法 国会提出案文






 

公文書 航空局の陸軍省から逓信省への移管移管

移管文書  

    
    上記の付箋拡大
        

 

公文書 航空法施行施行



航空法の施行期日を定める閣議決定文書

 

内閣総理大臣 田中義一

外務大臣 田中義一

内務大臣 鈴木貫太郎

大蔵大臣 高橋是清

陸軍大臣 白川義則

海軍大臣 岡田啓介

司法大臣 原 嘉道

文部大臣 三上忠道

農林大臣 山本悌二郎

商工大臣 中橋徳五郎

逓信大臣 望月啓介

鉄道大臣 小川平吉

 

 


公文書 故後藤勇吉勲六等瑞宝章叙勲の閣議決定  宮崎県延岡市のページへ

公文書 故長岡外史旭日大綬章叙勲の閣議決定 山口県下松市のページへ

新 公文書 チャールス リンドバーグの叙勲決済文書   リンドバーグ



○ 叙勲関係の公文書

 歴史に「もし」は禁句ですが、後藤勇吉飛行士が太平洋横断飛行の訓練中に殉職していなければ、3年後のミス・ビートル号は無かったかもしれません。内閣賞勲局が閣議に上げた文書には「国際航空路開拓の先駆たるの任を果たせり」とあり、逓信省の指令で大阪から上海へ飛んだ功績などが列記されていますが、当時としては実に惜しい人材を失ったことが文面から伺われます。

 一方、リンドバーグ夫妻の訪日は朝野を挙げて大歓迎を受けましたが、叙勲の決済文書でも「大佐の世界航空界上発達に貢献したるところ万人の認めるところ‥」と称えています。

 個人的な感想として、公務員や政治家や大企業社長らに対する叙勲については白々しい気持ちを抱きますが、本当に立派な業績を挙げた人物には、勲何等とかの叙階を設けず、天皇陛下からじきじきに勲章を与えてあげて欲しいものです。政治利用の匂いがつよい国民栄養賞などは廃止して。

○ 昨日の編集者の個人意見を読んで  Tさんからメール

   昨日の日替わりメモを読んで思うところがあって、メールします。 私は数年前まで額縁屋をしていました。小売りではなく製造する方です。何でもやりましたが、主な仕事は「勲章額」を作ることで、国家勲章から企業叙勲まで色々作りました。

 仕事を通じていつも思ったのは、政治家や役人への叙勲件数が多すぎるということでした。民間人への叙勲も勿論ありましたが、多くは政府への「献金者」で、これは勲章を金で買っているようなもので、実際、会社の「箔付け」の為に献金していた会社も少なくはありませんでした。

 恐らく生涯で唯一の経験となりそうですが「勲一等旭日大樹章」の額を3点セットで納品したことがあります。納品先は「小沢一郎事務所」で、当時、自民党が小沢一郎の国替えへの「見返り」に勲一等を贈ったと言われた時期のことでした。

 小泉政権の頃、それまでの「叙勲受章者は50歳以上」という年齢制限が撤廃され、予想通り勲章の「安売り」が始まりました。不況で企業からの献金が減っていた頃(それ以前で多かったのは、バブル末期の1989~1990年頃)で、ある意味、勲章を贈る側と叙勲される側の利害が一致していたのですが、どうにも違和感を感じつつ仕事をしたものです。

 私は仕事に誇りを持ち、いい加減な物は作らない主義でしたが、授章者が増えると同業者も増え、勢い価格競争の渦中に放り込まれることとなり、代理店からは、「もっと安い商品を」と矢のようなコストダウンの要求があり、不本意ながら安価な商品を開発しましたが、やはり安物感は拭えず、こんなものが売れることを恨んだりもしました。
 数の増加は質の低下を招きます。これは顧客にも当てはまり、顧客トラブルが増えてきました。多くは顧客の取り扱い不備で、見栄えを良くするのに裏蓋の取り付けに特殊な方式を採用していたのですが、説明書を読まずに外そうとして額を壊すトラブルが増えました。
 そのうえ、顧客は自分の非を認めず、決まって「壊れていた」と言ってくるのです。ちょっと傲慢かも知れませんが、物を作る側として、自分が丹精込めて作ったものが最初から壊れていた、などと言われることは屈辱的ですらありますし、最初から壊れていたのか、壊したのかは一目見れば判ります。
 経緯は同じでも、「壊れていたから交換しろ」と言われるのと「不注意で壊してしまったので交換してもらえませんか」と言われるのでは、こちらも人間ですから印象が全然違います。そんなこんなで、コストダウン要求、出荷数増加(コストダウン商品は元々利益率が悪いうえに、従来品も価格据え置きで同様に利益率は下がっていた)、クレーム件数の増加で、私はすっかり疲弊してしまい、退職することになってしまいました。

 ちょっと愚痴になってしまって申し訳ありません、もう少し書かせて下さい。本当に叙勲して功績を称える人物にも勿論叙勲は授与されていますが、事前報道を見て思うのは、プロパガンダの匂いがするんですね。で、実際の受章者リストを見ると、政治家、役人、財界人ばかり。叙勲受章者は内閣府で決めるのですが、これでは当然のように「身贔屓」になります。公正取引委員会のような第三者機関で選定すべきだと思うのですが、どう思われますか?
 長文になって申し訳ありませんでした。今回はこれにて。

佐伯から : 業界から見た叙勲の裏側、貴重な証言ですね。勲章を与える側の恣意(しい)が働くのは古今東西不変でしょう。嫌いな奴や逆らってきた奴を推薦するような公平無私な人間など居る訳がないと思います。ほぼ、あきらめです。裏側をわきまえておいて、新聞に載った名前で祝福などしないようにしましょう。

 

新 公文書  東京都市計画 東京市飛行場新設   東京市飛行場


(注) 昭和15年に埋め立て工事が挫折したのは、東京オリンピック及び同万国博覧会が中止になったことが大きな原因とされています。

○ 昭和13年 東京都市計画・東京市飛行場 (内務省文書)

 当時は、都市計画事業は内務省(戦後は建設省都市局など)所管でした。1938(昭和13)年の文書によりますと、羽田の東京飛行場の拡張、城東区地先の海面埋め立てによる東京市飛行場の新設、調布飛行場の新設が決定されています。

 これらは、航空需要の増大や列国首都に大飛行場が整備されている状況を踏まえ、かつ1940(昭和15)年東京オリンピックを控えての計画でしたが、実現したのは、羽田の部分拡張と調布飛行場新設だけで、東京市飛行場は埋め立て途中で挫折しました。オリンピックが中止されたのが原因とされていますが、日中戦争の戦費増大など国家財政の窮迫も大きな要因でした。

 現東京国際空港の1.5倍もの面積の東京市飛行場が実現していれば、戦後航空史は随分変ったものとなっていたことでしょう。埋め立ては、戦後、ごみの処分場(夢の島)として再開されましたが、東京ヘリポートが、その夢の続きとするならば、あまりにも淋しい話しではあります。

 

新 公文書  東京大学名誉教授田中館愛橘の文化勲章授与の上申書  田中館


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新 公文書  戦後航空緊急施策要領案 次官会議了解事項   緊急施策






 

○  水泡に帰した緊急施策

 官僚の優秀性を示す皮肉な一例を挙げておきます。敗戦直後の混乱も冷めやらぬ9月、「戦後に於ける国民経済並びに交通文化の発達に必要なる民間航空の存続育成を図る」という目的で航空緊急施策要領案が作られたのです。

 案を読むと、占領軍を刺激しないように飛行機の外観を変更(日の丸を消すということか?)して、これを認めさせようというのから始まって、要員、飛行場、航空路、生産修理事業の復興など本格的な民間航空の復活へ向けて願望があふれるみたいに箇条書きが続きます。

 この了解事項が閣議まで上げられて発効したのかどうかは不明ですが、航空戦でさんざん煮え湯を飲まされてきたGHQの中では、何と虫のいいことを考えやがってと怒りが沸騰したに違いありません。そこから、二度と日本の航空を立ち直らせてはならないという認識が生まれたのではないでしょうか。

 9月6日の次官会議了解から半月後、全ての飛行機が強制接収されました。そして、11月には、日本の航空をどん底におとしめたGHQ覚書が政府に届いたのでした。航空に関する一切を禁止すると。

 水泡に帰した緊急施策案を前に優秀な官僚達の落胆振りが目に浮かびます。なお、余分なことですが、次官会議の文書に陸軍罫紙を使っています。会議を陸軍が主導したとは思えないので、困窮した用紙事情下で不要となった陸軍の公用紙を運輸省あたりが持ち帰っていたのか?

(注) 次官会議了解とは : 本来主務官庁(この場合は運輸省)の所管事項ですが、全省庁の意思としておきたい重要事案を決定するものです。 閣議了解も同じ。


 

公文書  大日本航空株式会社法の廃止 閣議決定  大日本航空株式会社法の廃止




 

○  どん底に落ちた日本の航空

 航空に関する一切を禁止する覚書が届いてから、国会は国策会社大日本航空株式会社法の廃案を議決しました。GHQからの強力な指示が伺われます。展示の文書は、帝国憲法に則り、天皇陛下の裁可を経て廃止法を公布するための閣議の手続きです。

 閣議決定の花押(かおう)を見ますと、陸軍大臣を第一復員大臣に、海軍大臣を第二復員大臣と修正し、いずれも幣原喜重郎氏の花押筆跡です。陸軍省と海軍省が消滅して復員省になり、失職した将軍の後を総理が兼任する臨時措置であったことが分かります。

 ちなみに第二復員省には、軍令部などで働いていた海軍将校が大量に雇用され、のうのうと生き延びたことは有名な話です。ただ、彼らが水交社を盛り上げて、戦争の評価(反省、非難、自慢等々)を行い、歴史研究の大きな材料になっていることもご承知のとおりです。 

新 公文書  連合軍最高司令官覚書昭和25年6月26日 2106号 国内航空事業運営の件  2106号

 世界民間航空の急速な発展という外的条件や、GHQ参謀のアーレン大佐と松尾静麿逓信省航空保安部長(→電気通信省航空保安庁長官→運輸省航空庁長官)らの秘かな努力もあって、マッカーサー元帥も日本人による航空運送事業の再開を認めざるを得なくなり、歴史的な覚書が日本政府に発せられました。


 

新 公文書  連合軍最高司令官覚書昭和25年6月26日 2106号-1 国内航空事業運営の件210

 上の2106号を修正する覚書を同日付で発するという扱いの意味が解せませんが、「郵便、貨物、旅客の日本への及び日本からの輸送」という文言が、国際線を意味するのではないかという危惧があって、「日本国内」に限定することと、運送事業を許可されても、日本人が航空機を所有、操縦、製造、改良、組立などをすることは一切まかりならぬし、何をするにしても連合軍最高司令官の承認を求めよという趣旨を追加したものです。



 

公文書  国内航空運送事業令閣議決定文書    国内航空運送事業令





 

公文書  航空路開設の閣議了解    航空路開設



○  待望の航空再開

 1950年6月26日に、GHQは日本国内の航空運送事業を許可する旨の覚書を政府に発しました。北朝鮮軍が38度線を越えて侵略を始めた翌日のことですが、覚書の決定までには相当の期間を要したでしょうから朝鮮戦争とは関係がないと思います。それにしても随分あわてたもので、出したその日のうちに修正を出すという、公文書としては異例の扱いでありました。

 この航空再開には、GHQ参謀や航空保安施設の維持管理を委ねられた日本側関係者の内々での努力がありました。また、覚書の解釈をめぐってCAB(米国民間航空局)も関与しての動きもあり、翌1951年1月30日に、日本に乗り入れている外国航空会社による会社設立ではなく、日本人の資本による会社の設立を認める覚書(今回の展示には無かった)を発し、同年3月に青森から福岡まで縦断する航空路を開設する閣議了解へとつながったのであります。

 撮影技術が悪くて、大変見難い画像になっていますが、それまでの和紙に墨書という高級感から一転して、粗悪なザラ紙に和文タイプになっている点にもご注目ください。戦後事情のひとつなのです。

 誰かの受け売りでなく、こうして原典に直接触れることでの歴史遍歴は、私にとって格別のものがあります。面白いですね。 

 

公文書  航空法の公布航空法


 

 航空法は、1957年7月31日に公布され、翌8月1日から施行されました。この文書は、内閣の罫紙にタイプされているので、内閣法制局のものと思われます。

 

 国立公文書館 1957年航空法の公布 法制局作成と思われる法律文書

 図書室38「歴史の証言 航空法立案の思い出 」に、1957年に赤坂離宮で新航空法の立案に当った職員の回顧と、私の評論を載せていますが、成案を内閣法制局の用紙にタイプしたと思われる原本が展示されていました。

 航空法は、1957年8月1日の施行以来、もう何十回にわたって改正を重ねてきており、例えば第一条「この法律の目的」の条文も、その時は”航空の発展を目的とする”でしたが、現在は”利用者の利便の増進を図る‥”などが付け加えられて、時代の変遷を感じさせます。 

 なお、図書室38で航空法(運輸省)、航空機製造事業法(通産省)と縄張り争いの結果が、YS-11とMRJの開発遅延の遠因だと論じているのですが、やはり当っていると思います。MRJの開発と生産を指導援助する役所が運輸省(国交省)一本であれば、FAAなどによる安全基準の最新情報が逐一三菱に伝達され、後追いでの設計変更の手間が随分軽減されてきたはずです。

 二つの役所に気を使って、その狭間で大変な苦労をしているであろう三菱航空機の現場に痛く同情いたします。

公文書  日本航空株式会社法の公布 閣議決定文書日本航空株式会社法

 1951〜1957年、日航の幹線運行に他社が乗り入れるなど国内の競争が激化し、国際線進出に伴う機材の確保とで日本航空の経営基盤は弱体でした、。また、イギリス政府ががBOACに100%出資するなど各国がNational Flag Carrierを積極的に育成していた環境もあって情勢もありました。
 そこで、日本政府は国の半額出資による特殊会社、日本航空株式会社法を制定し、1958年9月26日に旧社の人事や機材等を継承して新しい日本航空株式会社が創立されたのです。

 日本航空株式会社法公布の閣議決定の署名(花押)は内閣総理大臣吉田 茂、運輸大臣石井光次郎などです。 

 1987(昭和62)年、日本航空株式会社の民営化に伴って、この法律は廃止されました。

 

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