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航空歴史館いしぶみ

 三菱MC-20妙高號の事故について

   妙高號の事故 1940/12/20
 大田区羽田空港 妙高 號殉職記念碑
 築地本願寺における合同葬 1940/12/30
 殉職記念碑を東京国際空港へ移設 その慰霊祭 1959/12/10
 故山川鹿三郎航空官の遺品
  妙高 號殉職記念碑の移設
 妙高 號殉職記念碑の移設完了
図書室  妙高號事故 - その事故原因を推理する -

 

妙高號殉職記念碑 の移設完了  完了

 名古屋市港区大江町の三菱重工人材開発センターの北側に移設され、4月9日に現地で慰霊祭が行われました。

妙高號殉職記念碑保存委員会による移設費用寄付者への報告書から  提供藤原 洋






 

 

妙高號殉職記念碑 の撤去   撤去

 羽田空港旧整備地区にあった「妙高號殉職記念碑」が撤去されました。台座が残っているだけの状態で、掲示等がないので、処分されたのか移転したのか不明です。N地区に駐機しているビジネス機を撮影するために月に1回は前を通るのですが、気が付きませんでしたから、撤去は今年に入ってからと思われます。(2016/04/22記 ハロースクエア)

撮影2016/04/17 ハロースクエア

名航大江工場に新造移設

 旧整備場地区の整備と記念碑石材の劣化により、裏面の金属銘板を新たに作られた石碑に取り付けられました。新記念碑は、名古屋市港区の三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所大江工場に移設されます。

2016年3月発行デルタ会会報第31號から  提供藤原 洋






 

 
A3611-05 東京都大田区羽田 東京国際空港
       The Monument of Mitsubishi MC20 Myouko, Tokyo International Airport, Tokyo Metropolitan  

 

妙高 號の事故

 MC-20は陸軍の三菱100式輸送機を民間旅客機としたもので、大日本航空と朝日新聞社が使用しました。航空局による民間型の検査は大日本航空の妙高 號J-BGON(100式輸送機の4號機)を使って行われました。

三菱MC-20一型 J-BGON妙高號 酣燈社 日本の航空五十年

 1940(昭和15)年12月20日に陸軍側も同乗して検査飛行を行っていたところ千葉県姉ヶ崎沖合いに墜落し、搭乗者13人全員死亡という大事故を起こしました。航空局では、残骸の調査や同型機による試験飛行、風洞試験などを行いましたが、確実な事故原因は不明でした。

 事故の教訓から、検査基準の制定や自動計測装置の重用、搭乗員を最小限にすることなどの改善が行われ、民間航空における本格的な事故調査体制が確立される第一歩となりました。

 妙高號殉職記念碑は、はじめは川崎市にあった航空局航空試験所構内に建立されましたが、終戦後羽田空港の検査官事務所そばに移され、1979年に現在の地に納まりました。写真のように立派な台座の良好な環境にありますが、碑裏面の事故状況と13人の殉職者氏名の銅板は腐食が進んでいます。
     参考文献 航空技術325號 村林淳吉筆「航空局検査行政の推移(1)」

大田区羽田空港 妙高 號殉職記念碑      羽田

 三菱MC-20妙高 號の殉難祈念碑(慰霊碑)は、羽田整備場の三菱の<YS−11部品倉庫>隣りにある<JCAB合同庁舎>脇の道路沿いにあります。この道路はモノレール下に見える各新聞社格納庫に行く道路です。 

 

 

 撮影2003/07/15 にがうり
   

撮影 YS45  

碑文判読
昭和十五年十二月二十日東京湾上空ニ於テ妙高號試験飛行中事故発生シ左記ノ諸氏殉職セラル諸君ハ又当試験所ノ建設ニ当リ前途洋々タル希望ト抱負トヲ以テ企劃竣工ニ盡瘁セラル今ヤ当所ノ機構成リ実験研究ノ成果漸ク挙ルニ当リ中道ニ殪レシ諸君ノ不遇ヲ思ヒ 惻々ノ情禁ジ難キモノアリ茲ニ碑ヲ建立シテソノ霊ヲ慰メ功績を世ニ伝ヘントス

        昭和十九年三月    佐々木利吉郎 識 
       

     殉職者氏名
       航空局航空官     山川鹿三郎
       仝          石田正規
       仝          村田元之助
       仝          井上精一
       仝          森 啓三
       航空局技手      鈴木 環
       仝          近藤 隆
       仝          平田 忠

     
部外者
       陸軍大尉       赤澤忠彦
       仝          小池節郎
       三菱重工業
社員    湯原岩夫
       等航空機操縦士   青木峰蔵
       航空機機関士     肥田八重男

 

築地本願寺における合同葬 1940/12/30    葬儀

合同葬アルバム












 

殉職記念碑を東京国際空港へ移設 その慰霊祭 1959/12/10    慰霊祭



山川夫人の玉串奉奠

出席ご遺族

航空局関係者

羽田東急ホテルでの直会


      

故山川鹿三郎航空官の遺品    遺品

 故山川鹿三郎航空官のお孫さんの山川義介さんが保管されている遺品等の写真のご提供を受けました。
            



妙高 號の機体の一部 木製布張りの上に厚い塗装



事故当時航空局航空試験所第三課長の山川鹿三郎航空官が三菱航空機の出身であったことを示す封筒と名刺
  

ご遺族作成のスクラップブック (古いブックの写真等を剥がして作られた模様)


           

事故直前の雑誌から
  

  

航空朝日のスクラップと思われる







 


日替わりメモ2013/09/17再掲

〇 妙高號の遺品公開

 図書室に紹介している藤原洋さんの妙高號事故原因推理の論文が殉職した主任航空官山川鹿三郎さんのお孫さんの義介さんの目にとまり、そのご縁で機体の部品を含む故人の遺品をヒコーキ雲で公開する運びになりました。

 過日、藤原さんと日本航空協会航空遺産継承基金の長島さんが訪れてそれらを拝見し、機体部品については残念ながら箇所を確定できるには至りませんでしたが、義介さんのお父上 敏哉さんが事故後に作成されたスクラップブックなどの諸資料が航空史の空白を埋めてくれるものになりそうです。現に、今まで分からなかった殉職記念碑が川崎から羽田の検査官事務所横に移された時期が1959年と判明しました。(現在地へは1979年移設)

     
                  左藤原さん 右山川
さん

 義介さんは、73年前の事故当時にお婆さま、つまり鹿三郎令夫人が詠まれた一連の詩を公開しています。飛行機は危ないという妻を叱った夫への心境から、不時着を知らされて無事を祈る極限までの不安、3ヵ月後に引き上げられたご遺体を抱きしめる悲痛など切々として胸を打ちます。文学的にも、素養ある明治の女ここにありです。味読をお勧めします。

歌の翼 祖母の歌集 http://ow.ly/oVVYr からその一部 

捜索(十二月二十日姉ヶ崎沖合いに不時着との第一報。翌年三月機体発見)

      慈悲もなく 時計の針は 進みゆきぬ
      一秒とても おごそかなるに

      今頃は 助けの船に うつされぬ
      君の笑顔の 目にみゆるらし

      人々の 我にかくして もの言いぬ
      一抹の不安 我が心(ムネ)おさゆ

      宿につきて 捜査本部てふ はり紙は
      悪夢と願うも あだになりしか

      飛行機は危きものと いいし我を
      叱り給いし 君にてありし

      夫ののりし 飛行機の あかし流れ来ぬ
      いずこにおわす すこやかにいませ

      妹の 涙あふれる すすりなき
      慈悲もなく時計の 針は進みゆきぬ

      一秒とても おごそかなるに 寒き海
      未だとどかず 救助の報せ

      しんしんと いと寒き夜は ふけゆきぬ
      一るの望み 今断たれんとす

 

図書室

図書室57  妙高號事故 - その事故原因を推理する -   掲載2011/01/31 
追加2011/06/02

 

妙高號事故 -その事故原因を推理する (1) (2) (3) 藤原 洋

          掲載誌 航空ジャーナリスト協会機関誌
     風天ニュース(Puten News)98、99 100各號

(1) 風天ニュース98
2010/12発行
(2) 風天ニュース99
2011/03発行
(3) 風天ニュース100
2011/05発行

妙高號事故 -その事故原因を推理する (1)

 藤原 洋さんの久々の論考に接しました。藤原さんは運輸省航空局出身者として、羽田整備場の一角にある妙高號殉職記念碑のことを忘れることができず、将来、事情を知らない人々によって空港整備の大義名分のもとで粗末に扱われてしまうのではないかと、とても心配しています。

 その気持ちが、妙高號事故について正しく書き残しておこうという決心になったものと思います。この論考によって、碑の存在や価値が 航空関係者にいきわたるように佐伯も応援いたします。 (碑については東京国際空港のいしぶみ参照)

 さて、連載第1回の内容は、妙高 號殉職記念碑のいきさつを述べてから、陸軍100式輸送機をMC-20として民間機に割愛してもらう手順、航空局による堪航検査の方法の紹介に続いて、MC-20 J-BGONが昭和15年12月20日に羽田飛行場を離陸し、翌年2月24日に千葉県姉ヶ崎沖合の海底で発見されるまでの状況が詳しく説明されています。

 事故原因の推理は次號に譲られています。速度試験中、4000mの高度で全速水平飛行をしたところ振動を発したことから、陸軍の技術将校も乗って試験してみようじゃないかとなったのが、事故当日の飛行でしたから、その辺りを彼がどのように推理してくるのかとても興味があります。

 藤原さんは、航空局出身のベテランであると同時に、若い時に、戦後我が国の記録派ヒコーキマニアの草分けである関正一郎さんから直接の薫陶を受けています。関さんは、アマチュア航空愛好家に対して、飛行機を見に行くにしても、模型を作るにしても情報をこまめに収集することの大切さ、それを系統的に記録することの大切さを説いた初めての人でした。今では当たり前の ことですが、愛弟子の藤原さんは、幅広い分野の航空機についてそれを発展させてきました。

 例えば、「思い出 前輪式セスナ170B〔JA3015〕についてA5301」参照

 ここにきて、わが国航空検査行政を本格的に確立する原点ともなった妙高號に戻られたことは、妙高號にとっても、藤原さんにとっても、私の想像を絶する「何か」があるような気がするのです。市販されない機関誌ですが、敢えて紹介する気になった理由がそこにあります。

航空ジャーナリスト協会機関誌 風天ニュース(Puten News)について

 機関誌なので会員にしか配布されません。この號は、藤原さんがインターネット航空雑誌ヒコーキ雲を参照されたことから特に送って頂いたものです。蛇足ですが、私は、仕事の関係でマニア活動を中断した期間、同会を退会し、退職後、某氏の斡旋で再入会を申し込みましたが、平木國夫副会長の反対で認められませんでした。 佐伯

妙高號事故 -その事故原因を推理する (2)    2

 第2回は、事故機の海中での状態、航空局航空試験所本所による残骸調査、風洞試験、実機による地上及び飛行試験の結果報告が紹介されています。

妙高號事故 -その事故原因を推理する (3)   3

 第3回は、引き続き各種試験結果とそれによる問題点推定の文書が紹介され、最後に藤原さんの仮説が述べられています。それらの試験は、日本で初めて基礎的体系的に行われたものとして、後年に貴重な体験を残してくれたものでした。

 ところが、結果としては、あげられている問題点のすべてについて事故に結びつくような重大な欠陥は見当たらないと記述してあって、要するに原因不明なのであります。これは、かって事故調査官を務めた藤原さんをして著しく欲求不満を起させるものなのでしょう。

 彼は、こう書いています。

 あらゆる文献から、事故に関与した疑いのある要素を洗い出してみよう。これは日本の警察が得意とする「状況証拠」からの類推であり、私の最も忌避する手法だが、他に情報を得る手段がないので、敢えてこの手法を用いる‥

 そして仮説が述べられますが、片発停止からスピンに入って墜落したのは、三菱や陸軍が強調しているMC-20(百式輸送機)の安定性ということについて、疑いを持つべきではないかというのが結論です。

 随分はしょった言い方をして失礼しましたが、これに至るには九七式重爆での安定性の問題など関連して深い考察がありますし、更には個人的類推にすぎないので、否定するなり、疑うなり読者の自由と断ってあります。
 もっと大胆な仮説を期待していた評者は、少々拍子抜けの感無きにしも非ずですが、科学者タイプの藤原さんにふさわしい謙虚な納め方であると同時に、藤原さんの文書に続けて掲載されている鳥養鶴雄さんの一文を拝見して、これが仮説として見事な補完になっていることに、うなった次第です。

 

・ 鳥養鶴雄氏による補完  方向舵のロック

  鳥養さんは、T-1練習機やYS-11設計の豊富な実務経験の中で得た外国文献を引き合いに、妙高號の事故を、機体の安定性(重心許容範囲など)とともに、片発停止時の方向舵のロック(Rudder Lock)に原因があるのではないかと仮説を立てています。

 大型機が片発停止になった時に生きているエンジン側の方に向くのを修正しようとすると、はじめは方向舵がものすごく重いが、次第に軽くなり、遂には自動で最後まで動いて行ってしまい、これを中立に戻すことができなくなってスピンに入ってしまうという現象が、ダグラスDC-3、ボーイング307で報告されているそうです。

 これは、非常に示唆に富んでいると思います。 双発機のMC-20が600メートルもの高度から、スピンの回復ができずに海面へ激突してしまった原因として十分に考えられることです。ただし、それを裏付ける妙高 號側の資料がないということも藤原さんが断っています。

 いずれにしても、妙高號の事故原因追及に新たな視点を与えるものであり、そこに思い至った鳥養さんの考察ともとになる豊富な文献解題を提供してくれた藤原さんに改めて敬意を表するものです。

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