静岡県 伝説の時代から現代まで航空史抜き書き

 
航空歴史館

 南アルプス 赤石岳の九七式重爆の消息

 

目 次

  04/12/26 はじめに 雑誌世界の航空機の記事から
05/01/06 自衛隊が撤去 慰霊碑もある 登山家仲間では有名な話 桝谷崇文さんから投稿
05/03/05 浜松基地には無関係との回答 航空自衛隊浜松基地から
07/11/16 慰霊碑の位置を確認 写真撮影 都立航空高専ワンゲル部
07/11/16 これまでのまとめ
08/02/19 プロペラの行方と窓枠写真について くれ木工房さんから投稿
A4539 静岡県 Shizuoka Prefecture 静岡市葵区 赤石岳
                 

04/12/26 はじめに 
 

 南アルプス赤石岳(静岡県側)の三菱キ21九七式重爆撃機の残骸についての情報が50年間途絶えているように思います。今年は、北海道ニセコアンヌプリ山中の零式艦上戦闘機の主翼が麓の倶知安郷土館へ収容されたグッドニュースがありましたので、関連して、実際に残骸を確かめてきたレポートを再び公にしておきたいと存じます。   佐伯邦昭

 

  世界の航空機1954年12月号記事

下記記事は日本語OCRで読み取ったものです。一部誤読み取り箇所を修正したほかはほぼ原文のままです。
 
 著作権について : 法人や団体の出版物の著作権保護期間は発行してから50年、著者に権利がある場合はその人の死後50年です。この記事については、鳳文書林が原稿料を金田さんに支払って権利を取得していると推測されます。もし、金田さんに権利があるとすれば、著作権法違反になりますが、鳳文書林は既になく、金田さんの消息もつかめませんので、航空史発掘の善意の処置として掲載するものです。関係者の方が見ておられて問題ありということなら連絡してください。 佐伯


 

墜落機探訪記‥・

再び見る日本軍用機

                                  金田元之助

 戦後もはや10年近くになろうとしている今日、我々フアンの中には未だに旧日本軍用機を今一度見たいものと思っている人達も少くない事であろう。
  筆者も他聞に洩れず同じ気持を未だに持っているのであるが、最近雑誌に紹介された『日本軍用機の一部は今尚アメリカに無事保存されている』と云う喜ばしい一文を見て、機会あれば此の夢も実現出来るものと新たに希望を持つ事ができたのである。
  然し筆者はごく最近、再び日本軍用機に接する機会を得た。勿論内地での事であり、此の目で見、此の手で触れて来たのであも。全く夢の様な話しだが、以下これに就いて説明すると共に写真若干を添える事にした。甚だニュース的な愚文で恐縮だが、日本機フアンの為に敢えて筆を取った次第である。
  

墜落機は何か

 筆者としては航空機に就いては其の一切を諦めていた22〜3年の頃だったと記憶するが、友人から南アルブスに日本軍用機が墜落した儘になっていると云う話を聞いた。
  筆者としては此れをその儘闘き流すはずはなかったが、近くの山腹にB-29が殆んど無傷で不時着した話を聞いているだけに、これは他分B-29の一件が誇張されたものだろうと解釈していた。
  然し、直接南アルブスに登った人達にその模様を聞いて見ると、B-29とは全く別の話で墜落機は日本機である事は間違いない事が解った。しかし相手が航空機に関しては全く興味のない人達なので話しにならず、ただ墜落機は双発機であるという程度しか掴めず陸海軍の別や機名等は勿論判然としなかった。あやふやな人の話を継ぎ合わせると胴体腹部にふくらみがあり、座席ほ前後2ケ所にあるというので、これはてつきり九九双軽であろうと判断していた。
 それに機首のみが破壊している程度というので、筆者白身が実際に現物に接したいものとその機会を狙っていたのであるが、種々の都合で容易に実現するを得なかった。当時筆者としては登山と云う事は不馴れの為に自信がなく機を逸した様な形であったが、計らずも今夏、実兄や岳友と共に南アルブス登山の機会を得計画以来五年余、漸くにして墜落機に接するという宿望を果す事が出来たのである。
    

さて本物は?


 去る8月9日、兄をリーダーとしてT君と筆者の3人は6日間の予定を以て出発、木沢口より登山、大沢渡に至る快適なる山林鉄道が思い出される。大沢岳、兎岳、聖岳を縦走し、赤石岳にほ12日の午前11時頃到着、いよいよ墜落現場附近に到達したのである。
 9日以来快晴に恵まれ絶好の登山日和であったが、赤石岳にさし掛る頃から天候ほややくずれ気味となり、山特有のガスが発生し山頂では殆んど展望が利かなくなってしまった。肝心な日に天候がくずれ気味となり、墜落機を発見できぬ恐れもなかつたわけではないが、筆者として興奮を覚えないわけに はいかなかった。
 
 赤石岳から筆者がトップをきり墜落機を発見せんものと左右くまなく探し歩いたが、はや小赤石岳を目前に見ながら容易に発見出来ない有様で、果して墜落機のあるのは真実かと疑うと共に一抹の不安さえ感じ始めてしまった。
 これから間もなく私より50mばかり後に歩いていた兄が墜落機を発見、遂に感激の時は来たのである。一瞬にしてその疲れをも忘れると云った気持は航空フアンならでは味わえぬものであろうが、眼下にあの懐しい灰色の肌を見せて身動きもしない日本軍用機を見て感激せざるを得なかった。
 
 かくて戦後9年、再び日本軍用機に接する事が出来たのである。
 然し乍ら筆者の期待のそれを完全に裏切ると云う事実に直面したのである。何故ならば、墜落機というより寧ろ残骸に近いものであったからである。ともあれ筆記用具、スケール、キャメラ等を持ち現場まで下りる。
 
 ここで墜落現場を説明すると、赤石岳と小赤石岳の中間に当る静岡県側で30度程度の傾斜を持つガラ場(石ばかりの所)である。赤石岳より10分ばかり下った地点であるから標高は3000mもあろうか。縦走路から約150m下の地点にあたり、ガラ場のため現場まで15分〜20分は掛った事と記憶する。
 実際に墜落現雛に降り立ってみると、その破片は広範囲に散乱し、さながら三原山の惨事を目のあたりに見た感じであった。おそらく濃霧の為の事故であろうと推察されるが、左主翼のみやや完全な姿を残し胴体は見る影もなく破壊し、一見して機種は何であるか判定するを得なかった。(第1図参照)

 残された片翼、尾翼等をよく見て後、始めて九七式重爆撃機であるということが解ったが、墜落地点から想像して恐らく浜松航空隊所属機だと思う。

 崖の近くに先ず主脚があり、次いで発動機及びプロペラが投げ出されている。

 これより離れる事約50mの地点に胴体を激突したものらしく完全に潰れた胴体と左主翼がある。(第1図参照) 胴体は後方側部の小窓のある部分を残し最尾端は左側水平安定板のみ残し(第2図参照)垂直安定板は跡形なく吹飛んでいた。


 激突した際、右主翼は折れて飛んだものらしく主脚と同様崖近くにその残骸を見せていたが、主脚とは全然位置が異る地点である。第1図の主翼(左側)よりは、その内部構造がよく判り、充分に調べ得る事が出来たが、これは主翼先端より2/3程度を残していた。前縁は殆んど破壊して前桁らしきものを露出し、後縁ではフラップが跡形なく吹き飛んでしまっているが、日の丸は雨に打たれた為か僅にその跡を残すに止まる。

 その他、細い部分が無数に散乱、操舵用のものと思われる鋼鉄線?が数本赤サビになっているのが印象的で、主翼が大変長く見えた事も又印象的であった。
 胴体後方側部の小窓から見て九七重2型と思われるが、胴尾部の遠隔操作の機銃を備えた部分がズツク布ではなくオールデュラルミンである事と、更に極めて小さい小窓(機銃整備の為か)があるところからT型乙ではないかとも思われる。
 従って発動機はハ101(火星)(複列14気筒)と思う。第5図に示すペラのついた発動機は殆んど無傷といってよく、素人考えから分解掃除を行えば使用出来るかの様に思えた。これに反して第4図に示す発動機は気筒など黒ずんで大変汚れていた。プロぺラは二段可変の3翔であるが筆者が実測したものは半径約170cmであった。実測にてぺラの図面を作成したが、実測でほ正確とはいえないので写真のみ附す事にした。


 
あ と が き

 天候悪化の為、僅か40分にして引揚げなければならない事になってしまい、大変残念であったが写真数十葉と若干の構造資料を持ち帰る事が出来た。
 今回の登山が2、3年前であったならば、九七重の面影を完全に認める事が出来たであろうと思うと尚残念に思われる。というのは静岡県側で処理をしたものらしく、主翼上面に“最終処理実施す”“静岡県山岳課”と太々に書かれていたのである。

 故に殆どその儘と云う友人の話も満更嘘とは思えないし、又登山記念の為か、日本機フアンの仕業か第12図の様に主翼のところどころが切抜かれていたのには筆者も苦笑いせざるを得なかった。
 もし今後、諸兄の誰かが本機に接したいと思うならば、ここに示した以上は処理されるほずがないから、調査に出掛けられるのもよかろう。
 九七重の翼構造を調べるにほ充分なものと思われるが、調査後には筆者と変った資料を本誌へ発表されん事を願って筆をおきたいと思う。2

 

2005/01/06  九七式重爆の残骸について 桝谷崇文さんから投稿

「南アルプスの九七式重爆の消息は?」の記事を興味深く読み、早速、登山が趣味の父に聞いてみました。

 九七式重爆の残骸は十数年程前に自衛隊によって撤去されたそうです。登山関係者の間では結構有名な話で跡地には慰霊碑が建立されているとのことです。

 父も実際に赤石岳に登ったことがあるそうですが墜落の痕跡はもう何も無かったようです。山と渓谷という雑誌にもこの件のレポートが掲載されていたらしいです。


佐伯から : お知らせにより「南アルプス、赤石岳、慰霊碑」で検索してみましたら、まえじまてつおという方の山旅の 想い出というサイトに赤石岳富士見平に「陸軍軍用機遭難慰霊碑」があるという記事を見つけました。 慰霊碑の地点は南アルプスの静岡市側になりますので、自衛隊が撤去したということは、静岡県浜松基地あたりが関係している公算もつよく、同基地資料館の九七式重爆羅針儀が遺物ではないかと想像する人もいます。

 航空関係では忘れられていた残骸が、登山家の間では結構有名な話であったというのも虚を突かれた感じで、日本にはまだまだ発掘しなければならない「普遍」があるなあと思います。いずれにしても桝谷さんのメールによってここまで判明し、更なる詳しい情報が期待されます。ありがとうございました。3


2005/03/05 上記の浜松基地に関係があるのではないかという点に関して、1月7日付けで質問したものへの回答


浜松基地HPをご覧いただきましてありがとうございます。
ご質問の件ですが資料館で調べましたところ、
第1点
 赤石岳から残骸を撤去した事実は確認出来ませんでした。またどこの部隊が作業しどこへ運ばれたかも判りませんでした。
第2点、
 資料館には石碑の情報はありません。
第3点
 資料館に展示してある九七式重爆の羅針儀は、群馬県に住む元62戦隊の方から寄贈された物です。寄贈者が何処で入手したかは記録が残っていないので判りません。

 以上です。回答が遅れまして大変申し訳ありせんでした。

航空自衛隊1空団広報班


2007/11/16 慰霊碑の位置を確認 写真撮影 都立航空高専ワンゲル部  4

 今年9月12日から15日まで赤石岳へ登って遭難者慰霊碑を確認してきました。

 碑は、富士見平から金田元之助さんが発見した事故地点(赤石岳から静岡市側に10分ほど下ったガラ場)を望むように建てられています。赤石岳東壁を目前にしているわけです。文句なしに本邦最高地の航空関連碑です。

 赤石小屋からは約45分ほどの道程ですが、南アルプスは登山口までのアプローチが不便ですので、ここへ来るには最短でも山小屋2泊の3日がかりの山歩きになります。
 

碑の表面  旧陸軍軍用機/遭難者慰霊碑/静岡縣知事齋藤壽夫   裏面  昭和十九年四月二十五日遭難/昭和三十九年第四 次遺骨整理の際建之

 2007/11/16 これまでのまとめ 佐伯邦昭 5

 都立航空高専ワンゲル部の皆さんお疲れさまでした。そしてありがとうございました。推測を含めて多少のまとめをしておきます。

 1944(昭19)/04/25 墜落事故 浜松の陸軍飛行第7戦隊所属の九七式重爆撃機と思われる
 戦後、静岡県の手で遺骨収集が行われた模様 登山者による外板の一部など持ち去りなどもあった模様
3   1954(昭29)/08/09 上記金田元之助さんが九七式重爆を確認。 主翼に「最終処理実施す 静岡県山岳課」と書いてあったというが、それが公式のものかどうかは不明。
 金田さんは遺骨について全く触れていない。
 1963(昭38)年に、静岡県により遭難者慰霊碑設置 「第四次遺骨整理の際建之」と彫ってあり、静岡県が公式に4回にわたって回収事業を行ったことが明らかである。ただ遺骨整理というのは大義名分であって、実質は残骸の撤去処分であろう。上記桝谷さんの「自衛隊が残骸撤去」という情報からしても、発動機等の重量物運搬は自衛隊のヘリコプターによるとしか考えられないし、3000メートルの高地へこれほどの石碑を持ち込むことについても同じである。
   自衛隊の協力があったと考えるのが自然であるが、碑面には自衛隊の文字がなく、また、浜松の航空自衛隊第1航空団も関与した記録がないということで、やや不自然に思われる。また、旧軍機の墜落はこれ以外 にも多くあったのに、静岡県知事がこれほど熱心に取り組んでいる理由もよくわからない。
   静岡県庁に記録が残っていれば、明らかになるかもしれない。

2008/02/19 プロペラ の行方と窓枠写真について くれ木工房さんから投稿

8 私は、かなり前から赤石岳に飛行機が落ちて残骸があるということは聞いていました。以下私が持っている情報です。

 昭和30年前半、材木業者がこの墜落機のプロペラを赤石から持ち出したのですが、そのとき材木と一緒にトラックに乗せられたプロペラを目撃しました。プロペラは、当時の大河原中学の体育館の地下倉庫にしばらく置いてあったそうです。

 次に、昭和52年ころだったと思いますが、私は赤石岳のふもとの広河原山小屋へボッカのアルバイトをいたしました。そのとき山小屋の入り口に、墜落機から切り取ってきたとういう残骸がありました。なんでもこの小屋のアルバイトをしていた大学生が、切り取って担いできたとのことでした。

昨年の夏、この山小屋へ行きましたが、誰か持ち去ったのか残骸はもうありませんでした。

左のパネルは機首下面の索敵窓と思われます (佐伯)