oHOME・SITEMAP 日替わりメモ グライダーの部屋目次 伝説の時代から現代まで 航空史抜き書き   広島県目次 p


航空歴史館

  top

― 広島吉島飛行場の歴史 ―

 

 戦後史2   1952年以降 グライダーの訓練と小型機の利用

吉島飛行場でのグライダー訓練と小型機の利用 
  1 飛行場としての復活
 グライダー訓練
 グライダー訓練活動の終息 と小型機の継続利用  ・ 管理者が国鉄であることの謎
4 吉島飛行場史発掘 中国新聞に載りました
5 協力者名、参考文献
宮野アルバムによる追加資料  後日、上記本文に挿入し全面改訂の予定
  その1  毎日新聞のマルス号が牽引してきた東飛SA-2グライダー
  新 その2  吉島飛行場の小型機

    

1 飛行場としての復活

 航空再開時の雑誌等に掲載された全国飛行場リストの中に「広島(吉島)飛行場 所在地広島市吉島町 滑走路500×50m 管理者日本国有鉄道」という記載が散見されます。


国内飛行場一覧表(1954.9現在) 酣燈社 航空情報1954年10月号


飛行場一覧表 日本航空協会 航空年鑑1956年版


区分Cは、公共飛行場及び駐留軍飛行場以外の飛行場を指す

 戦後、広島(吉島)飛行場は確かに存在し、小型機の離着陸やグライダーの訓練場として活用され、南観音町に第三種の広島空港が供用開始するまでは、工場や住宅が浸食してきつつあった時期にも曲がりなりにもセスナ機が使っていたという証拠もあります。
 ただし、そもそも広島(吉島)飛行場が何時できたのか、管理者の日本国有鉄道とどういう関係があるのか等については確かな資料がなく、断片的な記述や証言を頼りに解明せざるをえません。

 以下、推理を加えながら、終戦までの前史に挑戦してみます。

 1952(昭和27)年、航空活動が許可されると、手ぐすね引いて待っていた航空人による各新聞社やおおとり会などによる小型機の活動が始まり、広島においても吉島飛行場が復活しました。それが、飛行場一覧表に載っている訳です。

 復活後の状況を再び宮野証言に聞いてみましょう。

  吉島飛行場が復活してから私が覚えている飛行機は、オースター オートカー、エーグレット、セスナ170、180、パイパー ペーサー、スーパーカブなど。
 グライダーは、小田勇さんが生駒山で滞空日本記録をつくったSA-1型ソアラーを凱旋飛行で持ってきたり、巴式ろ之参型中国醸造号を使用しました。プライマリーのK-14型もありましたが、主翼にねじれの欠陥があり私が回ほど乗っ ただけです。
 
 滑走路の状況は、陸軍飛行場として転圧はしてありましたが、草が生えていてグライダーを牽引する自動車(キャデラック等)が走れないため、南堤防まで長さ1000メートル、幅8メートルくらいをグレーダーで整地しました。28年の4、5月頃で、県庁土木部にお願いして日曜日にアルバイトでやってもらったものです。

 だいたい下記図面の位置です。図のAというのは、戦時中に中学生の私が自転車で出かけて憲兵がこないかびくびくしながら飛行場を観察していた堤防、Bは、県が土地分譲を開始して最初に建てられた地元企業のたしか東洋ピアノという会社で、このためにグライダー着陸に支障がでるようになり、訓練中止のひとつの原因になりました。

  中央部一帯は凹凸のはげしい不整地であり、飛行場としては使えませんでしたので、小型機のパイロットももっぱらグライダー曳航自動車路を利用していたものです。
 富士航空のセスナ170で宣伝飛行をしていた黒江保彦さんや、海軍の撃墜王赤松貞明さんも高知からペーサーで飛来していましたね。
 
  飛行場の管理については、中央との交渉は小田勇さんがやり、私はその他の雑用一切を受け持ちました。正式な飛行場にして貰おうというので、ガリ版刷りの嘆願書に計画図を付けて広島県にお願いもしました。しかし、工場が建ちはじめて、或る時、見物に来た工員さんがセスナ180のプロペラに巻き込まれて死亡するという事故が起きたりしたこともあって、いつのまにかうやむやになってしまいました。 私も、好きだからこそやっていたのですが、消滅のやむなきに至ったのも時の流れでした。

 

2 グライダー訓練

 広島でのグライダーの草分けと言えば、もちろん日本のグライダーマンとして3本の指に入る小田勇さん(1915〜2002)であり、現在でも航空自衛隊防府北基地をベースに滑空活動を行っている中国航空協会(1968年設立)の生みの親の一人でもあります。
 自伝によりますと、航空再開の1952(昭和27)年には、早々と東京軽飛行機研究所を立ち上げ東飛式SA型グライダーを製作して藤沢飛行場で飛ぶなど活躍していますが、地元の広島でどうであったかというと、家業の小田億材木店(現小田億家具ーファインズギガモール)の方に筆が詳しくて、吉島のことには全く触れていません。

 広島グライダークラブという組織もありましたが、小田さんの記述にはでてきません。

 しかし、次の写真が吉島における在りし日の小田勇さんを如実に伝えています。背景の島々の位置からして吉島飛行場の天満川寄りの滑走路に違いありません。人々に何やら挨拶か説明かをしているのが小田勇さんです。グライダーは巴式ろ之参型セコンダリーJA-0005 中国醸造号(詳細はG041です。

1952(昭和27)年7月19日 土曜日 中国醸造号命名式    遠景は左から向宇品、金輪島、似島


北(市街地方向)から南(海側)に向かって離陸 山は仁保町の黄金山


 広島グライダークラブは、これより先1952(昭和27)年1月に発足しました。広島市上流川町の流川教会を借りて行った発会式には入会希望者が150人も寄ったそうで、永らく翼をもがれて切歯扼腕していた旧パイロットらの熱意のほどがうかがわれます。 (1952年7月には全国に37ものグライダー関係団体が発足していたという。)

 この写真の日付1952(昭和27)年7月19日を解析すれば無許可の違反飛行です。というのは、航空機の保有、飛行、製造、操縦士等の資格、飛行場設置等を定めた新航空法が制定されたのが7月15日、そ施行規則発効が7月31日なので、小田勇さん自身にも飛ぶ資格が与えられていないのです。しかし、そのようなことは無視してでも飛びたいという熱意が勝っていたのでしょうか。

 小田さんは、この8日後の7月27日(日曜日)に広島県豊田郡川尻町の野呂山滑空場オープニングセレモ二―として、中国醸造号により戦後初の山頂発航を成功させています。

 こういう、全国のグライダー熱の高まり押されるようにして、航空法に基づく事業用操縦士を育てるために、8月に藤沢飛行場で全国グライダー指導者講習会が開催され、無免許の小田勇さんと清水六之助さんが教官という変則ながら多くの受験生に資格を与えました。したがって、吉島飛行場における本格的な訓練は1952(昭和27)年9月からではないかと思われます。

  翌1953(昭和28)年9月21日の中国新聞に次のようなコラムがあります。

  蘇る大空への夢

 20日は9年ぶりに復活した戦後初の「航空日」 吉島飛行場では広島グライダークラブ、広大航空研究会の練習部員約40名が青空のもとグライダ訓練に余念がない。〜 全国各大学では体育科の正科として取り入れられることになり、〜 広大では明後年にはソアラー(高級機)を購入、内容の充実を図ると鼻息は荒い 〜

 付けられた写真には、セコンダリーが空中に、地上にプライマリーらしい機体が写り、(写真は吉島飛行場にて)というキャプションが付けられており、察するところ、この頃が吉島飛行場におけるグライダーの最盛期であったのではないでしょうか。

 次の写真は、高校時代に吉島でグライダー訓練を受けたことがある吉森秀夫さんに写真をお借りしました。場所は、広島市旭町の県立広島工業高校機械科実習室の前です。

1955(昭和30)年 県立広島工業高校にて 提供 吉森秀夫さん


  当時、県工のすぐ隣の旧陸軍被服廠のレンガ建物が広島大学の薫風寮となっており、その玄関にプライマリーとセコンダリーが1機ずつ保管してあったそうです。それらの入手や保管は、広島グライダークラブの事務局長宮野修さんが主に世話をし、広島大学工学部の勝盛豊一教授、1950(昭和25)年から文部省広島出張所及び広島大学事務官の肩書を貰っていた小田勇さんも大いに関係していたと思われます。

参考 世界の航空機1954年8月号航空ニュース

 文部省ではグライダーの課外教育補助金が決定この程発表した。交付先は教育大学、東大、広大、京大で交付金額は各校約2〜30万円程度で、これはグライダーの修理購入費に充当されるもの。
 

 写真の高校生達は、吉島飛行場で中国醸造号に何回か乗せて貰い直線飛行を経験した模様です。盛田という県工の物理の先生も飛んでいたそうです。初心者はゴム索によるパチンコ発進であり、小田さんらはジープ牽引で飛びあがっていたそうです。

 セコンダリー中国醸造号のほかに、初期訓練用として霧ケ峰式鳩K-14型プライマリーを導入していましたが、翼に問題がありあまり使われなかったようです。

 

3 グライダー訓練活動の終息 と小型機の継続利用

 中国醸造号は1955(昭和30)年10月に大破して廃棄処分となり、また、広島県の土地分譲によって工場などが滑走路付近にも建ち始めたため、広島グライダークラブの実質的な活動が阻まれるようになり、更に広島大学航空研究会でも部員がヨット部へ流れるなどしたため、吉島でのグライダー訓練活動は1955(昭和30)年をもって終息した模様です。

 冒頭に掲げた日本航空協会発行航空年鑑においても、1956(昭和31)年版までは「吉島飛行場」の記載がありますが、1957年版 以降には記載がなく、1959年版(1959年5月発行)になって広島市南観音町に広島飛行場が「工事中」として出てきます。これが1200メートル滑走路と管制塔など諸設備を備えた運輸省管理の第三種広島空港(現広島西飛行場)です。その開港は1961(昭和36)年9月でした。

 なお、広島グライダークラブの訓練活動が終息した1955(昭和30)年以降の吉島の消息については、次の手掛かりがあります。 古いものから順に紹介します。


@ 1955年1月2日の記録 航空ファン誌から 

昭和30年3月号のグラビア 
転載許可済み


 当時たいへんに盛んであったエンジン付き模型飛行機の愛好者にとっては、市内の吉島は素晴らしい場所であったようです。 説明文に吉島飛行場という固有名詞が書かれていいます。


A 1956年2月25日の記録

水野景次郎著 追憶の叙事詩 或る航空機関士の半生 2006/07 毎日ワンズ発行

p65

 吉島ではポツリポツリと家が建ち始めており、だだ広い大規模の造成地のような所だった。〜ある製材所の横の広場に来た時、思わず目を疑った。〜セスナ180型が鉄条網の柵の中にロープで地面に繋留されていた。〜その時の写真の裏書に「昭和31年2月25日」とある。
 

B 1956年4月の記録 

明田弘司著 百二十八枚の広島 2009/08 南々社発行 著者により転載許可済み

説明 【軽飛行機(セスナ)用の吉島飛行場】
戦時中、吉島の埋立地に陸軍の飛行場が造られていた。戦後すぐに材木置き場となったが、その後、
西飛行場ができるまでセスナ用の飛行場として活用された。昭和31(1956)年/現光南・南吉島付近

 撮影した明田さんによると、ジューキミシンの小型機が宣伝飛行で広島へ来たときに乗せてもらい写したものです。(人物は不明) 市内を一周する間にライカで36枚撮りきったそうで、これは飛行の前か後かの1枚のようです。遠景は宇品方面ということなので、吹流しは北風を示し、飛行機は海側から着陸し、画面の左の方に止まって居るものと思われます。
 説明の「
戦後すぐに材木置き場」というのは間違いで、バラック家屋とともに材木置き場が出来始めるのは、戦後10年位たってからのことです。

明田さんがその飛行の際に撮った写真のなかの吉島埋立地 著者により転載許可済み


そのクローズアップ

 

 残念ながら、吉島飛行場はこのアングルしかありませんが、ぼつぼつ建物が建ち始めている状況が見て取れます。グライダー離着陸に支障を及ぼすという東洋楽器(アトラスピアノ)は、 跡地の中区光南3丁目11番からの推定、地上で人物を写した方角は、製材所風のバラックが散在する図の地点と推測しました。

  この当時、市内西部で太田川河川改修工事(放水路新設)による用地買収が進行中で、吉島飛行場の土地は恰好の代替地提供となりました。木材業者が集積していた三條(みささ)地区などからの移転がありました。

  また、全体写真の中ほどにも横長の大きな構造物様のものが見えます。よって、A及びBからみて県が飛行場の存続を容認する状況は全く無かったと言ってよいでしょう。


C 1957年2月21日の記録

1957(昭和32)年02月21日付け中国新聞記事

 
   西日本航空KK(本社広島市八丁堀、社長松下俊夫氏)では、これまで広島市吉島飛行場にセスナ2機を常駐させて空中写真や宣伝飛行を行っていたが、20日新たにセスナ170B型1機を購入、吉島へ配備した。
 

  この記事に添えられた写真を、同新聞社写真部にマイクロフィルムから判読してもらった記号は次のとおりです。
 セスナ180  JA3075 みたか号
 セスナ170B JA3077
 セスナ170B JA3086

登録記号 機名 登録日 登録時所有者 登録時定置場  
JA3075 セスナ180 1953/11/04 松下俊夫 藤沢
広島空港開港後の1963年撮影
JA3077 セスナ170B 1953/11/18 東亜航空 鹿児島  
JA3086 セスナ170B 1954/02/06 東亜航空 曽根
1967年7月 防府飛行場にて 提供:飛松克周

 しかし、記事が常駐とか配備という単語を用いている以上、吉島が基地であったことは疑う余地がありません。 更に次の手掛かりがあります。


D 1957年8月8日の記録

水野景次郎著 追憶の叙事詩 或る航空機関士の半生 2006/07 毎日ワンズ発行

p74

 昭和32年8月8日、第六管区海上保安本部広島航空基地(ヘリポート)の開庁式が強行された。〜 この辺りは一面葦が生い茂っているだけの、だだっ広い何もない草地だったが 〜 式典では吉島飛行場から見慣れたセスナ3機も編隊で祝賀飛行に飛来し、〜
 

 以上により、すくなくとも1957(昭和32)年08月現在でセスナ機が離着陸していたことは間違いありません。 既に建物が建っているそばでの離着陸といことですから、恐らく、セスナ180等の離陸滑走距離に見合う空き地だけは、広島空港開港の1961(昭和36)年9月まで 確保されていたのではないかと推察されます。法律上は、恐らく場外離着陸場扱いで、常駐といっても燃料補給程度であり、整備などは当然曽根飛行場などで行っていたものと思われます。

 今の吉島は、埋立地の地先が更に埋め立てられて清掃工場になり、ここに向かって真っすぐ伸びる幹線道路の両側は空き地もなくなりました。かって、ここにグライダーや軽飛行機が離着陸していた痕跡は完全に消滅し、それを記憶している市民も数少なくなりました。

 

新 宮野アルバムによる追加資料 その1   追1

 毎日新聞社のスーパーカブが東飛SA-2グライダーを曳航して吉島飛行場に来ている写真です。周囲に東洋ピアノなど建物が増えているので、1955(昭和30)年以降と推定されます。

東飛SA-2 JA2005 毎日新聞社

  設計葉剣英・小田勇 東京軽飛行機製作所 c/n52-S-002 
1952/12/25 JA2005登録 毎日新聞社 定置場東京国際空港
1953/02/07 小田勇飛行士 滞空日本新記録樹立 28時間8分 
1969/03/29 抹消登録
  布施工業高校に保管 現状不明



飛行服の人物は小田勇さんと思われる

牽引してきたパイパーPA-18 スーパーカブ JA3019 毎日新聞社マルス号

  c/n18-1829 PA-18-135
1952/09/20 JA3019登録 毎日新聞社 定置場東京国際空港
1953/03/12 羽田で愛称マルス命名式
1967/07/07 伊藤忠商事 定置場調布飛行場 
1967/10/18 荒川和子 以下個人遍歴 定置場調布飛行場→館林→ホンダ 
1980頃 大南工業 妻沼飛行場でグライダー曳行(CONTRAIL No.103)
1982/04/15 小谷修一 定置場大西飛行場
2011現在 登録未抹消

北(市街地方向)から南(海側)へ向かって滑走

 

新 宮野アルバムによる追加資料 その2  追2

吉島飛行場の小型機

@ セスナ180 JA3075 当時の所有者は松下俊夫
北(市街地方向)から南(海側)へ向かって 着陸進入 1954〜1956年ごろ

     

駐機 周囲を有刺鉄線で囲んでいた





A セスナ170B JA3086 東亜航空

 曽根(小倉)飛行場の東亜航空が行き詰って、同社操縦士の天野敏夫氏が海軍同期で広島市に居た松下俊夫氏に援助を求め、1957年以降、東亜航空のセスナ170B JA3075、JA3077及び松下氏のセスナ180 JA3086が吉島から活動することが増えたと思われます。

東亜航空の歴史 曽根(小倉)飛行場時代の東亜航空セスナ170Bと併せお読みください

1952/10 日本青年飛行連盟設立 
  同連盟の九州地区の3人がセスナ機で飛行訓練実施
1953/08/15 福岡航空保安事務所の勧めで、3人による東亜航空設立発起人会発足
(1953/11/04) (松下俊夫氏個人所有のセスナ180 JA3075登録)
1953/11/18 セスナ170B JA3077登録 九州地区で宣伝や遊覧飛行実施(無許可)
1953/11/30 東亜航空株式会社設立 本社東京都
1954/01 セスナ150B購入 02/01東京から藤沢経由、曽根飛行場へフェリー
1954/02/02 使用事業免許
1954/02/06 セスナ150B JA3086登録 定置場曽根飛行場 2機体制 
1955/10 東亜航空本社を福岡市に移転
1956/11 松下俊夫氏が参加し、本社を広島市に移転
JA3075、JA3077、JA3086の3機体制 (主)曽根飛行場 (副)吉島飛行場 
1956/11/22 ビーチクラフトC18S JA5029登録 定置場鹿児島空港
1957/12/18 不定期航空運送事業免許 
1958/03 初の路線営業 鹿児島〜中種子島線開始
1961/09/01 広島空港開港
1962/02/24 定期航空運送事業免許


 

・ 管理者が国鉄であったことの謎

 最後に管理者の日本国有鉄道については、今のところJR西日本広島支社にも記録が見当たらないので不明ですが、次のように推理することはできます。

 もともと吉島埋立地の一部が臨港鉄道の操車場予定地とされていたから、鉄道省が工事に関与し、それを国鉄に引き継いだのではないか。しかし、国鉄に飛行場を管理する気はなく、また、土地所有者の広島県もそんな余裕はないし、 太田川放水路立退者等への分譲の予定があるということで管理を断られ、困った人が航空局への提出書類に適当に日本国有鉄道といれてしまったのかもしれない。

 当時の電気通信省航空廳(昭和27年7月16日から運輸省航空局)に、全国の離着陸場を現地調査して許可を出すほどの人員もお金もなく、恐らくは適当に処理せざるを得なかったという時代のお話しとして書いておきます。全体を通じて正しい資料の発掘が待たれます。

 

 

(4) 吉島飛行場史発掘 中国新聞に載りました 6

2008年(平成20)年8月2日土曜日 中国新聞夕刊1面 連載まちかどの記憶

(記事全文)

吉島飛行場 広島市中区光南

 戦後、占領軍によって禁止された日本の航空活動は一九五二(昭和二十七)年にようやく自由になった。
 この年に発足した広島グライダークーブブのメンバーも空を飛べるのを待ちわびていた。七月十九日、吉島飛行場でグライダーが飛んだ。機体の「中国醸造号」の命名式で記念飛行した。
 吉島飛行場は今の広島市中区光南、南吉島辺りにあった。吉島沖の埋め立て地は四四年に工業用地から陸軍の飛行場になった。
 航空の歴史に詳しい南区段原南の佐伯邦昭さん(00)は「滑走路や機体を隠す壕があった」と話す。戦後は原っぱだったが、軽飛行機が発着した。
 広島県立広島工業高校同窓会事務局長の吉森秀夫さん(00)は高校二年の夏にグライダーに乗った。広島大の学生が吉島飛行場でしていた飛行練暫に参加させてもらった。
 機体前部に付けたゴムの綱をX字形に大勢で引きゴムが縮む力で飛び出した。高くは飛ばず、胴体の下の滑走部が地面をこすりながら走った。
 少しだけ浮くことがあった。吉森さんは「風を切る音だけだった」と感激した。吉島飛行場は閉鎖が決まり、住宅が建ち始めた。グライダーの活動は下火になった。
 「今も空を飛びたい気持ちはある」と苗森さん。佐伯さんは「広島西飛行場を活用すればグライダーを飛ばせる」と夢を描く。                   (今田豊)

(写真説明)

 命名式の記念飛行で飛び上るグライダー。機体の下にそり状の滑走部が付いている。向うは黄金山 (1952年7月19日)

中段のカラー

 吉島飛行場があった埋め立て地(中央)には住宅や工場が立ち並ぶ。滑走路はカキいかだが並ぶ本川に沿うようにあった 。

 


 

本稿の執筆に当たりお世話になった下記の方にお礼を申し上げます。

宮野  修  広島グライダークラブ創設者の一人
斎藤茂夫  関西壱岐の会
松本正二  元陸軍船舶飛行第2中隊
宮野寛治  元陸軍航空隊
菅谷忠克  元陸軍航空隊(宮野氏経由)
Ken W Rose  元オーストラリア空軍
古谷眞之助  中国航空協会
今田    勇  中国新聞社
明田弘司    写真家
大石治生  インターネット航空雑誌ヒコーキ雲協力者
小倉寿夫  インターネット航空雑誌ヒコーキ雲協力者
外山秀夫  インターネット航空雑誌ヒコーキ雲協力者
井上 進  インターネット航空雑誌ヒコーキ雲協力者
池本公二  広島市企画総務局公文書館
小園登久男  広島市市民局国際交流課

 主な参考文献

1958年 新修広島市史 第2巻政治史編  広島市役所 
1962年  回想の日本陸軍機 酣燈社  
1969年  太平洋戦争日本陸軍機 酣燈社 
1971年  広島原爆戦災史 第2巻  広島市役所
1972年 広島県史 原爆資料編  広島県  
1980年  日本航空機総集第7巻及び第8巻 出版協同社
1981年 別冊一億人の昭和史 陸軍少年飛行兵 毎日新聞社
1981年 広島新史 資料編V 地図編 広島市役所 
1984年  吉島病院三十年史  吉島病院
1990年  小田勇著 翼よわが命 中国新聞社
1995 三菱重工広島製作所五十年史  三菱重工業株式会社 
水間博志著 飛翔人生 ― 飛行機野郎の告白 
日本の航空母艦パーフェクトガイド 2003年 学1995年研
朝比奈貞八郎「対戦哨戒用、三式指揮連絡機に乗って」  2003年 鈴木五郎著「天翔ける青春」より
水野景次郎著 追憶の叙事詩 或る航空機関士の半生   2006年
住田恵保著 かくれた広島の小史第二巻  2008年
明田弘司著 写真集百二十八枚の広島   2009年
日本航空協会 航空年鑑
鳳文書林 日本航空機全集   雑誌世界の航空機
酣燈社 世界航空機年鑑   雑誌航空情報 
文林堂 雑誌航空ファン
潮書房 雑誌丸
インターネット 田畑義雄軍曹のオートジャイロ部隊物語
インターネット 陸軍オートジャイロ部隊よもやま話
インターネット ブログ第二総軍研究所

TOP

 

東亜航空機、驚異の低空飛行

 今朝の東亜航空の写真を見て思い出しました。防長新聞には以下の二つの記事が掲載されています。特に、1960年の写真は、佐伯さんもご存知の旧県庁舎( )と旧議会棟( )ですが、この高度をご覧ください。県庁舎の屋根、スレスレです。おそらく高度は100フィート以下でしょう。さすがに元戦闘機パイロットです。現在では確実に航空法違反、技能証明剥奪モノだと思いますが、当時だからこそできたのでしょう。そういえば、関門大橋が完成してしばらく後。岩国海兵隊所属のヘリが橋下を通過してもいます。

 

1954/7/23 長門市制制定祝賀のため防長新聞が手配した「防長号」( 東亜航空所属セスナ170B JA3086 )が小月飛行場を離陸し、深川、仙崎上空を飛んだ。726日には小倉の曽根飛行場を離陸し、下関武久海岸で景品交換券を散布した。また、83日には萩上空を飛び、住吉神社三百年祭の奉祝飛行を行った。【防諜新聞】

1960/4/181923 防長新聞社では創刊80周年を記念して県下全域を訪問飛行した。機体はセスナ170で、初日は小倉の曽根飛行場を10時に離陸し、下松市、熊毛町、大和町、平生、上関、大島、大畠、由宇、周東町、玖珂町、岩国市、和木村、3時間半が経過し、広島空港に燃料補給のため着陸。離陸して本郷、美川、錦町、小倉曽根飛行場着午後4時半だった。二日目は曽根を10時に離陸後、宇部市、小野田市、山陽町、楠町、阿知須町、小郡町、山口市、徳地町、徳山市、防府市、曽根飛行場。三日目は、午前10時曽根離陸、下関市、豊浦町、豊北町、油谷町、長門市、萩市、福栄村、阿武町、須佐町、田万川町、須佐、川上村、佐々並、明木、美東町、秋芳町、美祢市、豊田町、菊川町、午後240分曽根着。【防長新聞 写真も 転載可です】  2016.9.10 古谷眞之助